Review | ダムタイプ『アクション + リフレクション』


文・撮影 | dotphob

 清澄白河駅を降りる。素敵な女性達が東京都現代美術館方面へと歩いている。眼鏡の奥のおしとやかな表情、清楚かつシンプルでお洒落な服装、こういう人と関わるにはどうすればいいんだろうか。服装、喋り方、考え方、感情、意識をサンプリングし、同化すれば「私はあなたとの接続(共感)が可能です」と伝えられるのだろうか。そもそも、話しかけたところで不審者と思われること間違いなしだ。“気持ち悪い”、“怖い”。この2つの単語をよく言われる。先日、以前に何度か同現場に居合わせた女性に初めて話しかけてみたのだが、その方もだいぶ泥酔しておられて「……サイコパスっぽくて怖くて話せませんでした」と静かに言われてしまったのであった(こちらは全く悪く捉えていないですし、当然の回答だと思っています。悪しからず。サイコパスだったらもっと生きやすいんだろうけどな)。僕にささやかな永遠の愛を。

 本題に入る。東京都現代美術館でのダムタイプ『アクション + リフレクション』に行ってきたので感想を記す。過去の展示作品を新たなインスタレーションとして再構築した展示だ。

| Playback

 16台のターンテーブルに各々クリアヴァイナルが乗っている。動作としては、針が落とされて一定時間再生すると針が持ち上がり、音が停止する。またある程度の時間が経てば再生される。音の内容はフィールド・レコーディングのようだ。16台全てが一気に起動しているわけではなく、ランダムに起動するシステム。某氏が昔公開していたMax / MSPパッチを彷彿とさせるが、彼も参加しているそうなので、何か関係しているのかな。Morton Feldmanが頭に浮かぶ。

 この部屋で図面設計書、やり取りの手紙、映像機器ICチップ内のプログラム・コードが書かれている分厚い本があったので読んだ。過去の作品の設計に関しての記録、35年間の展示に関するアーカイヴだ。センサーの動かし方を変えるコードの部分に手書きで「これは変わったコードだけど是非試してみてください」などという文字があった。単純にこういうやり取りをしたい一心でずっと音楽をやっているので、技術的共有ができる仲間がいない僕としては、非常な羨ましさに駆られた。作品よりもそんな部分で気持ちが滾る。

| LOVERS

 “監視下の愛”というコンセプトらしい。暗室の中で複数のプロジェクターから壁に映し出されているのは、全裸の男女が往来する姿だった。男女1人につき1プロジェクターで投映されているため、たとえ壁の中で触れ合おうとしても映像が重なり合うだけだ。何度も透過的に重なり合い、永遠に交われないまま往来している。これはインターネット上での交差も同様と考える。

Human Consciousness ↓
Computer ↓
Connection (22 / 80 / 8080 port) ↓
Server

 この流れのように、1セッションが他のセッションと“繋がる”ことはできても、“交わる”ことは物理的・論理的にはできない。意思疎通は文字列と記号を使えば少し遅延しながらも確認可能だ。しかし、その意思疎通もプロバイダやサイト管理者、厳密には政府に監視されているのである。現実世界でも同様に交差は本当に可能(すでにできている)なのだろうか。どんなに協調していても、どこか意識がずれていたりもする。“完全なる交差”というものは存在しないのかもしれない。

Dumb Type「MEMORANDUM OR VOYAGE」

| MEMORANDUM OR VOYAGE

 これは何年前かに同じく東京都現代美術館で観たことがあった。ディスプレイには8人のパフォーマーが映し出されている。音としてのノイズが発生する瞬間にCAPTCHA認証のような日常画像が8等分され、各々均等に下へずれて画像が表示されていた。視覚的ノイズ = 日常であり、単に集中したいときは様々なものを遮断したほうがいいな、というライフハックにおける知見が得られた。感想としては以上(簡単な感想ですが、素晴らしい作品でした)。

| pH

 「pH」の舞台装置の再現したものだった。中央にパフォーマンス・エリアがあり、それを分断するように蛍光灯の付けられたトラスが両端のモーターによって制御され、スキャナのようにパフォーマンス・エリアに示された対立する2つの言葉を照らし出している。鑑賞者は接近してくるトラスを認識しながら、二項対立の言葉を蛍光灯の光を頼りに読むことになる。つまり鑑賞者は半強制的にパフォーマーとして作品への参加を強いられるのだ。当時パフォーマーの動きを制限していたというトラスは、パフォーマー不在となっても動き続けているのだが、今度は作品に参加してきた鑑賞者の動きを制限し、動きを強要する。照らされた文字を読むにあたって、鑑賞者はトラスの移動に合わせ、時にはトラスを避けて一度パフォーマンス・エリアから外へ出なければならず、装置であるこのインスタレーションに動きを強制される。

 近代はそれまでの僕たちと世界との関係を大きく変えた。そのひとつが文化的コミュニケーションである“テキスト”の誕生だ。近代以前の“既知である画像”によって支配されたコミュニケーションは意味に溢れ、魔術的な世界を構成していた。“既知である画像”から意味を奪い去り、記号として生まれた“テキスト”は歴史的、時間的な線型的な概念を我々に与えた。それによって情報伝達は発達はしたが、世界から意味は奪い去られ、我々は抽象化さた世界と接することになり、世界との距離が遠くなった。それは前述のインターネットにおける1セッションの話に繋がる。そしてもうひとつ、機械などの“道具”との関係性だ。近代以前は人の周りにあった“道具”は、近代化によって機械化され、大規模なものとなり、人がその道具たる機械の周りに集まることとなった。主従関係の逆転だ。人は近代以降“テキスト”と“機械”によってある意味で翻弄され、動かされ続けているとも言える。

 「pH」は近代以降の人の様を示したテキストと繰り返される機械の動きによって批評的に見せる装置のように思える。現代は機械を自分たちが制御する単なる“道具”としてではなく、時に我々を制御しうる“他者”として認める必要がある時代なのだ。そんな思いを抱かせる作品だった。

| LOVE / SEX / DEATH / MONEY / LIFE

 「pH」の装置奥で光るLEDで表示された“LOVE / SEX / DEATH / MONEY / LIFE”の文字列。たまたま男女がいちゃつきながらトラスの周辺を歩いており、文字列がスライドしていく様と同時に男女の絡みも視覚へと入り、大変感動したのであった。愛とセックス、生活のためのお金、そして死。この2人が一生2人で生きてゆくとすると、これらある種の問題が付きまとう。例えば彼女が交通事故で死んだとしよう。彼は深い悲しみに陥るだろう。僕も今年祖母を亡くし、死の悲しみは痛いほど味わった。彼がリストラされて生活のお金がなくなってしまったとしよう。2人は絶望に陥るだろう。お金がない時の絶望感も痛いほど共感できる。その中でも強靭に生きるのが愛とセックスである。セックスを子孫繁栄と同義とすると、子孫が救世主になる可能性もある。愛とは、家族のように如何なる時も絶対的な機能を有する。幸せになってほしいな、その男女を見ていたらいつの間にか涙が流れていた。

dotphob

dotphob超音波・ノイズ愛好家。
三度の飯より妄想が好き。

dotphob
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UNCIVILIZED GIRLS MEMORY
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