Column「平らにのびる」


文・撮影 | 小嶋まり

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 わたしの家の近くを流れる川は、水流が牛歩の如くのろのろで、年中濁りっぱなしだ。昔はカヌー教室などで賑わっていたけれど、最近の調査報告によると年々水質が悪化しているらしく、今では川で遊ぶ人の姿もすっかり消えてしまった。

 この川のほとりには、老夫婦が営む喫茶店がある。店内はホールのように音がよく反響するそうで、常連の老人たちの賑やかな声が隅々まで響き渡っているらしい。一見のわたしが入るには少し勇気がいるので、喫茶店と川を挟んだところにある草原で、温かいお茶を入れた水筒を抱え、おもちと一緒にうろついている。

 去年の春先、天気の良い日にその草原でぼーっとしていた。きれいとは言えない川だけれど、水面に細かくキラキラと刹那に浮かぶ春日の反射はいつまでも眺めていられる。

 ふと視界の先に、枯れ草を抱えてのそのそと歩くヌートリアのつがいを見つけた。仲良く巣作りをしている。ヌートリアは外来種で、ビーバーのような、カピパラのような見た目をしていてなかなかかわいい。しかし、愛らしい姿に反して、長い前歯はギョッとするくらいのオレンジ色でちょっと怖い。歯の鉄分と齧った木の成分が結合して、前歯だけそんな色になってしまうらしい。

 川辺には、ほかの仲間もいる。毎冬、この草原にやって来る白鳥のつがいが、今年も無事に姿を見せた。白鳥は近くで見ると首が逞しく、体も大きく、なかなか獰猛だ。羽休めをしている白鳥のそばをおもちと通りかかったとき、突如おもちに突進してきて、シャー!と奇声をあげながら威嚇してきた。おもちは恐怖に慄き逃走。それ以来、すっかり白鳥を怖がるようになってしまった。

 暴れん坊ではあるけれど造形の美しさに惹かれ、最近は白鳥を眺めにしょっちゅう草原へ行くようになった。ロシアの北極海沿岸部から島根までという信じられない距離を飛んできたその羽は、汚れることもくたびれることもなく、純白でピンっと張っている。誇らしげに私とおもちに悪態をつくその力強さは、想像を絶する過酷な気候を乗り越えてきた生命力に結びついているようだ。

 先日、白鳥たちを眺めていると、ヌートリアのつがいが子供3匹を引き連れて泳いでいるのに遭遇した。春先に巣作りをしていたヌートリアなのだろうか。冷たい水の中を、まるで温泉に浸っているかのようにゆらゆらと泳いでいる。小さな子供たちは親の後をすいすいと追っていく。第二次世界大戦前に毛皮用(主に軍用目的だったらしい)で輸入されたことから野生化し、定着するようになった外来種。人間の都合に翻弄された動物だ。一体どんなふうに生き抜いているのだろうか。

 ネットでヌートリアについて調べると、害獣、駆除、農作物被害といったネガティヴな言葉が並ぶ。そんな中、熱心にヌートリアの分布調査をされているかたを偶然見つけた。彼はヌートリアの目撃情報を募集していたので、発見場所の詳細に親子で泳ぐヌートリアの写真を添えてメールを送った。少し気味が悪いと思われるかもしれないけれど、彼のXアカウントを探し出し、フォローまでしてしまった。彼のXには、仕事の休憩時間や休日にも街中の公園や自然の中をくまなく歩き回り、動物観察をしている様子が投稿されていた。生き物に対する純粋な好奇心に共鳴した。

 数日後、彼から丁寧なお礼の返信が届いた。わたしは、川に集う動物たちの摩訶不思議な生態や造形に惹かれつつも、ただ見守り、崇めることしかできない。

 ここ1週間、雪が積もってとても寒く、今日の日中も冷え込んでいたけれど、コーヒーを買いに外へ出ると、冬の夜には似つかわしくない春のような生暖かい風が吹きはじめていた。突然の気温変化だ。もうすぐ白鳥はいなくなってしまうんだろうな、と不意に思う。違う景色を眺める時が始まる。春が来るのが待ち遠しい。

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正編 | トーチ (リイド社) 「生きる隙間
小嶋まり Mari Kojima
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ライター、翻訳、写真など。
東京から島根へ移住したばかり。