文・写真 | 田口杏奈
美術史を専攻していた大学時代、研修授業でイタリア各地を巡って一番心に残ったのはフィレンツェだった。堂々とそびえるヴェッキオ宮殿や圧倒的な存在感のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。小さな街の中にそうした歴史的建造物がぎゅっと詰まった景色はそれだけで心を惹きつけるが、他の街とは何かが違って見えた。
それから何年も経って久しぶりにウフィツィ美術館を訪れたときのこと。修復されたばかりの絵画『東方三博士の礼拝』(レオナルド・ダ・ヴィンチ)に出会った。改めて考えると、500年以上も前に制作された絵画や建築が修復を介さずに残っているはずがないけれど、この作品をきっかけに初めて絵画修復師という存在を知って感銘を受けた。今私たちが何百年も前の美術作品を鑑賞できるのは紛れもなく修復師の優れた技術と知識あってこそ。それらを後世へと残すため手を尽くし、次世代の修復師に繋いでいくとは、なんてロマンのある仕事なんだろうとドキドキした。

同時にメディチ家の歴史とルネサンス美術に魅了され、大学時代よりも夢中になっていつの間にかその勉強が自分の生き甲斐になっていた。図書館で文献を取り寄せては誰に提出するでもない研究資料を作り、現地でフィールドワークを重ねると新たな気づきや感動がある。そんな時間がとにかく楽しくて、たびたびフィレンツェを訪れては、この街への想いが深まっていった。また、叶うかどうかはさておいて、自分もルネサンス美術の存続に貢献したいという願望が芽生え、いつか留学できるチャンスが訪れたらすぐ出発できるよう、絵画修復学校に通い始めた。同時に貯金とイタリア語の勉強も。それから約10年間に亘り温めてきた念願が叶って、今年からフィレンツェでの暮らしが始まった。予定としては語学学校に1年間通いながら後半で絵画修復学校に通い、その後絵画修復工房でも経験を積みたいと考えているが、実際修復師のライセンスを取得するためには現地の学校で3年間の履修が必要。自分にはそんなお金もなければ3年間日本を離れることも難しい。ましてや1年間でルネサンス時代の美術作品に携わるなんて現実的ではないが、一度きりの人生、大好きな街で自分の気持ちに身を任せながら、ほんの少しでも修復に携わることができたらと思っている。

そんな暮らしの中から、今回は街の様子について軽く触れておきたい。冒頭でも少し書いたが、フィレンツェの中心地はだいたい徒歩で回ることができる。全体的に街がぎゅっとしていて、歩くとすぐに主要な建造物と遭遇するような距離感にもわくわくする。路地の隙間からのぞくドゥオモの存在感は圧倒的で毎回ドキっとする一方、どこか見守ってくれているような温かさを感じる。また、ドゥオモを起点として位置関係も把握しやすく、方向音痴の私にも優しい。シニョリーア広場やポンテ・ヴェッキオ、ドゥオモ周辺は初めて訪れた20年前と比べると旅行者で著しく混み合っているものの、500年以上前の姿と歴史的痕跡がそのまま残る異空間に心を奪われ、実際そこに立つと人混みすら気にならない。


そして旧市街を繋ぐアルノ川。川沿いはとにかく気持ちいい。家から学校までの30分、カッライア橋、サンタ・トリニタ橋を右手に望みながら進んでポンテ・ヴェッキオを渡るルートは毎朝至福のひとときで、天気の良い日は格別。昇り始めた太陽の逆光に浮かび上がるポンテ・ヴェッキオはまるで絵画のよう。昼過ぎには川沿いに腰かけて寛ぐ人たちの姿も。




語学学校の先生も言っていたけれど、フィレンツェの日差しはとにかく美しい。スマホのカメラロールに同じ場所の写真が増え続けてしまうのは、光の変化によって1日として同じ景色が存在しないから。川を跨ぐ主要な橋の5つのうち、個人的には家から一番近いアメリゴ・ヴェスプッチ橋がお気に入り。ここへ来ると川幅がグッと広くなって空も広く感じられる。勢いを増すアルノ川とポンテ・ヴェッキオを望む遠景は本当に美しく、空の色が映り込む夕暮れ時は言葉を失うほど。ミケランジェロやレオナルドも川沿いを歩いて、今日も流れ続けるアルノ川を眺めていたのだろう。そんな光景がリアルに思い浮かぶのは、当時の街並みが今も息づいているからだと言える。

橋を渡った向こう側には個人経営のお店や工房が多く立ち並ぶ。この南岸は「オルトラルノ(Oltrarno)」と呼ばれ、イタリア語で「アルノ川の向こう側」という意味。ピッティ宮殿やボーボリ庭園、ブランカッチ礼拝堂、サンタ・フェリチタ教会などの最重要スポットが点在しつつ、庶民的で落ち着いた雰囲気が漂う。住み始めて間もない頃に出会った大好きなレコード・ショップもオルトラルノにある。そこではお買い物を口実に、とても優しい店主さんとイタリア映画の話で盛り上がることが密かな愉しみになっている。







個人的に一番好きなのが夜のフィレンツェ。夜空を背景に浮かび上がる教会や市内の建造物は明るい時間よりも幻想的で、息をのむような存在感に足が止まる。特に22時を過ぎると人気が減って、街全体がナイト・ミュージアムのよう。広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地を歩くとルネサンス時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥り、向こうからロレンツォ・イル・マニフィコとサンドロ・ボッティチェリが談笑しながら歩いて来るような気がしてならない。そんな異次元のフィレンツェが大好きで、夜から散歩に出かけることもしばしば。
広場に面したバールやメリーゴーラウンドで賑わうレプッブリカ広場は夜遅くまで活気があり、ここでストリート・ミュージシャンの音楽に耳を傾けていると日常の小さな気がかりはどうでもよくなる。

フィレンツェはどこへ行っても絵になる場所ばかりで、ここぞとシャッターを切るものの、写真には収まりきらない感動がある。1年間という限られた時間で、大好きな街をしっかりと目に焼き付けながら四季折々のフィレンツェを思う存分楽しんでいきたい。
今住んでいるアパートの話。フィレンツェの玄関口と言えるサンタ・マリア・ノヴェッラ駅から徒歩5分の場所にある私のアパートはなんと築800年。初めて聞いたときは驚いたけれど、中世〜ルネサンス時代に建てられた建築をそのまま生かしたアパートというのはフィレンツェでよくあるのだそうです。



よく見ると入口には当時の礼拝堂でもおなじみの天井様式が見られる他、ピエトラ・セレーナで造られた黒い石の階段、湿っぽい匂いのする廊下はどこか時空が歪んでいるかのように感じられる。私が借りている部屋はひとり暮らし用のワンルームでイタリアでは「モノロカーレ」と呼ばれるタイプ。ワンルームの中にキッチンがあり、トイレとバスルームが付いている。天井がとても高く、部屋の間取りが縦に構成されていて、室内の移動はどこへ行くにも階段を登るという独特な造り。フィレンツェにしては珍しく冷暖房も完備されているためひとり暮らしには十分。




ちなみにルネサンス時代にタイムスリップすると近所に画家のサンドロ・ボッティチェッリが住んでいるが、現在彼はそのすぐそばにあるオニッサンティ教会に眠っているので実は今でもご近所さん。こちらの教会は、ボッティチェリの『聖アウグスティヌス』やドメニコ・ギルランダイオの『聖ヒエロニムス』、ジョット・ディ・ボンドーネの『十字架磔刑』など、見どころ満載でおすすめ。



田口杏奈 Anna TaguchiInstragram
1983年生まれ。京都造形芸術大学芸術文化学科卒業。西洋美術史の研修以来、久しぶりに訪れたフィレンツェで修復されたばかりの『東方三博士の礼拝』(レオナルド・ダ・ヴィンチ)に出会い、感銘を受ける。同時にルネサンス美術とメディチ家に没頭、以降自主研究が日課となり、現地へ訪れるたびにフィールドワークを重ねる。また、いつか自分もルネサンス美術の存続に貢献したいという想いからパラッツォ・スピネッリ日本校、絵画修復エデュケーション・センターで絵画修復の技法・理論を勉強。2026年1月からフィレンツェに留学中。趣味はイタリア映画鑑賞とロケ地巡り。
















