Review | フィレンツェ散歩


文・写真 | 田口杏奈

 美術史を専攻していた大学時代、研修授業でイタリア各地を巡って一番心に残ったのはフィレンツェだった。堂々とそびえるヴェッキオ宮殿や圧倒的な存在感のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。小さな街の中にそうした歴史的建造物がぎゅっと詰まった景色はそれだけで心を惹きつけるが、他の街とは何かが違って見えた。

 それから何年も経って久しぶりにウフィツィ美術館を訪れたときのこと。修復されたばかりの絵画『東方三博士の礼拝』(レオナルド・ダ・ヴィンチ)に出会った。改めて考えると、500年以上も前に制作された絵画や建築が修復を介さずに残っているはずがないけれど、この作品をきっかけに初めて絵画修復師という存在を知って感銘を受けた。今私たちが何百年も前の美術作品を鑑賞できるのは紛れもなく修復師の優れた技術と知識あってこそ。それらを後世へと残すため手を尽くし、次世代の修復師に繋いでいくとは、なんてロマンのある仕事なんだろうとドキドキした。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『東方三博士の礼拝』 | Photo ©田口杏奈
レオナルド・ダ・ヴィンチ『東方三博士の礼拝』。レオナルドがミラノに移ったことで未完成のままになっています。2012–2017年に行われた修復によって表面に積もった古いニス層や蓄積した汚れが取り除かれ、これまで隠れていた人物の表情や背景が蘇りました。それまで図録で見ていた絵は全体的にトーンが暗く、少しばかり怖いイメージもありましたが、修復完了後はがらりと印象が変わりました。

 同時にメディチ家の歴史とルネサンス美術に魅了され、大学時代よりも夢中になっていつの間にかその勉強が自分の生き甲斐になっていた。図書館で文献を取り寄せては誰に提出するでもない研究資料を作り、現地でフィールドワークを重ねると新たな気づきや感動がある。そんな時間がとにかく楽しくて、たびたびフィレンツェを訪れては、この街への想いが深まっていった。また、叶うかどうかはさておいて、自分もルネサンス美術の存続に貢献したいという願望が芽生え、いつか留学できるチャンスが訪れたらすぐ出発できるよう、絵画修復学校に通い始めた。同時に貯金とイタリア語の勉強も。それから約10年間に亘り温めてきた念願が叶って、今年からフィレンツェでの暮らしが始まった。予定としては語学学校に1年間通いながら後半で絵画修復学校に通い、その後絵画修復工房でも経験を積みたいと考えているが、実際修復師のライセンスを取得するためには現地の学校で3年間の履修が必要。自分にはそんなお金もなければ3年間日本を離れることも難しい。ましてや1年間でルネサンス時代の美術作品に携わるなんて現実的ではないが、一度きりの人生、大好きな街で自分の気持ちに身を任せながら、ほんの少しでも修復に携わることができたらと思っている。

路地の隙間からのぞくドゥオモ | Photo ©田口杏奈
路地の隙間から覗くドゥオモ。イタリアでは街の主要な大聖堂のことをそう呼びます。フィレンツェのドゥオモはこちらのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。どこから見てもクラクラするような迫力と美しさに圧倒され、前を通るたびに写真を撮ってしまいます。

 そんな暮らしの中から、今回は街の様子について軽く触れておきたい。冒頭でも少し書いたが、フィレンツェの中心地はだいたい徒歩で回ることができる。全体的に街がぎゅっとしていて、歩くとすぐに主要な建造物と遭遇するような距離感にもわくわくする。路地の隙間からのぞくドゥオモの存在感は圧倒的で毎回ドキっとする一方、どこか見守ってくれているような温かさを感じる。また、ドゥオモを起点として位置関係も把握しやすく、方向音痴の私にも優しい。シニョリーア広場やポンテ・ヴェッキオ、ドゥオモ周辺は初めて訪れた20年前と比べると旅行者で著しく混み合っているものの、500年以上前の姿と歴史的痕跡がそのまま残る異空間に心を奪われ、実際そこに立つと人混みすら気にならない。

Photo ©田口杏奈
14世紀から残るポンテ・ヴェッキオは、フィレンツェに現存する中で最古の橋。この景色を眺めながらの登校は未だに実感が持てません。
シニョリーア広場 | Photo ©田口杏奈
中世からルネサンス期にかけて政治の中心でもあったシニョリーア広場とヴェッキオ宮殿。15世紀末に宗教改革運動を起こした修道士、ジローラモ・サヴォナローラが処刑されたのもこの広場。ジャン・ボローニャやチェッリーニらの傑作が並ぶ回廊、ロッジア・ディ・ランツィも素晴らしい。夜もまた特別な雰囲気があってつい立ち寄ってしまいます。

 そして旧市街を繋ぐアルノ川。川沿いはとにかく気持ちいい。家から学校までの30分、カッライア橋、サンタ・トリニタ橋を右手に望みながら進んでポンテ・ヴェッキオを渡るルートは毎朝至福のひとときで、天気の良い日は格別。昇り始めた太陽の逆光に浮かび上がるポンテ・ヴェッキオはまるで絵画のよう。昼過ぎには川沿いに腰かけて寛ぐ人たちの姿も。

Photo ©田口杏奈

Photo ©田口杏奈
毎朝川沿いを歩いて学校へ。カッライア橋の手前に立つのは劇作家のカルロ・ゴルドーニ。
Photo ©田口杏奈
コジモ一世の依頼でバルトロメオ・アンマンナーティが設計したサンタ・トリニタ橋。たもとには四季を表す4体の像がありますが、第二次世界大戦で破壊されたあと『春』の頭部も川の中から発見され、元の位置に戻されました。橋も含め、修復しながら大切に後世へと残していく意志に脱帽するばかり。そんな思いを胸に、毎朝この橋を眺めています。
Photo ©田口杏奈
ポンテ・ヴェッキオの上を密かに通っているのはヴァザーリの回廊。メディチ家の移動用通路として作られた回廊はピッティ宮殿からウフィツィ美術館を結びます。長年の改修工事が終わって現在一般公開中。コジモ一世の通勤路だったことでも知られるこちらを見上げて、毎朝誰にもばれないように挨拶するのが私の日課です。

Photo ©田口杏奈
アーチのフレーム越しからのぞくサン・ニッコロ門、丘の景色が重なる遠景は絵になる美しさ。

 語学学校の先生も言っていたけれど、フィレンツェの日差しはとにかく美しい。スマホのカメラロールに同じ場所の写真が増え続けてしまうのは、光の変化によって1日として同じ景色が存在しないから。川を跨ぐ主要な橋の5つのうち、個人的には家から一番近いアメリゴ・ヴェスプッチ橋がお気に入り。ここへ来ると川幅がグッと広くなって空も広く感じられる。勢いを増すアルノ川とポンテ・ヴェッキオを望む遠景は本当に美しく、空の色が映り込む夕暮れ時は言葉を失うほど。ミケランジェロやレオナルドも川沿いを歩いて、今日も流れ続けるアルノ川を眺めていたのだろう。そんな光景がリアルに思い浮かぶのは、当時の街並みが今も息づいているからだと言える。

Photo ©田口杏奈

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アルノ川と3つの橋を望む遠景 | Photo ©田口杏奈
アルノ川と3つの橋を望む遠景。

 橋を渡った向こう側には個人経営のお店や工房が多く立ち並ぶ。この南岸は「オルトラルノ(Oltrarno)」と呼ばれ、イタリア語で「アルノ川の向こう側」という意味。ピッティ宮殿やボーボリ庭園、ブランカッチ礼拝堂、サンタ・フェリチタ教会などの最重要スポットが点在しつつ、庶民的で落ち着いた雰囲気が漂う。住み始めて間もない頃に出会った大好きなレコード・ショップもオルトラルノにある。そこではお買い物を口実に、とても優しい店主さんとイタリア映画の話で盛り上がることが密かな愉しみになっている。

落ち着いた雰囲気のオルトラルノ | Photo ©田口杏奈
地元の住民や学生たちが寛ぐサント・スピリト広場。食材、アンティーク、オーガニックなど、曜日によって種類の異なる市場が開かれています。
落ち着いた雰囲気のオルトラルノ | Photo ©田口杏奈
広場に立つサント・スピリト聖堂はフィリッポ・ブルネレスキによって設計された美しいルネサンス建築。均整の取れた内部の空間構成やミケランジェロによる磔刑像、フィリピーノ・リッピやマーゾ・ディ・バンコらによる祭壇画は見どころ満載。未完成のファサードもお気に入りです。

落ち着いた雰囲気のオルトラルノ | Photo ©田口杏奈
路地の隙間から差し込む日差しが気持ち良い。

落ち着いた雰囲気のオルトラルノ | Photo ©田口杏奈

落ち着いた雰囲気のオルトラルノ | Photo ©田口杏奈
お気に入りの噴水。
落ち着いた雰囲気のオルトラルノ | Photo ©田口杏奈
向こう側に見えるのは、サン・フレディアーノ門。1300年代に建設された当時のまま残る木製の門は見応えがあります。フィレンツェには街の周りに城壁があった時代の名残として全部で8つの大きな門が残っています。
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豊富すぎる品揃えでいつも時間が足りないTwisted Jazz Shop。在庫切れの商品もすぐ取り寄せてくれます。気さくな店主さんが手作りで用意してくれたポイントカードもすぐ貯まりそう。隣のお店も気になっています。
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Twisted Jazz Shopで手に入れたイタリア映画。気づけば3本とも主演がアルベルト・ソルディで、音楽はピエロ・ピッチオーニ。

 個人的に一番好きなのが夜のフィレンツェ。夜空を背景に浮かび上がる教会や市内の建造物は明るい時間よりも幻想的で、息をのむような存在感に足が止まる。特に22時を過ぎると人気が減って、街全体がナイト・ミュージアムのよう。広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地を歩くとルネサンス時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥り、向こうからロレンツォ・イル・マニフィコとサンドロ・ボッティチェリが談笑しながら歩いて来るような気がしてならない。そんな異次元のフィレンツェが大好きで、夜から散歩に出かけることもしばしば。

夜空を背景に浮かび上がる教会や市内の建造物 | Photo ©田口杏奈

夜空を背景に浮かび上がる教会や市内の建造物 | Photo ©田口杏奈

夜空を背景に浮かび上がる教会や市内の建造物 | Photo ©田口杏奈

夜空を背景に浮かび上がる教会や市内の建造物 | Photo ©田口杏奈

夜空を背景に浮かび上がる教会や市内の建造物 | Photo ©田口杏奈

夜空を背景に浮かび上がる教会や市内の建造物 | Photo ©田口杏奈

 広場に面したバールやメリーゴーラウンドで賑わうレプッブリカ広場は夜遅くまで活気があり、ここでストリート・ミュージシャンの音楽に耳を傾けていると日常の小さな気がかりはどうでもよくなる。

Photo ©田口杏奈
終日賑わうレプッブリカ広場も歴史が深く、中世から市場として栄えていたのだそうです。19世紀の都市開発によって4倍に拡張されたものの、1500年代にストラダーノが描いた絵によって当時の様子を確認することができます。円柱の上に立つ像はドナテッロの『豊穣』。

広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地 | Photo ©田口杏奈

広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地 | Photo ©田口杏奈

広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地 | Photo ©田口杏奈

広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地 | Photo ©田口杏奈

広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地 | Photo ©田口杏奈

広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地 | Photo ©田口杏奈

広場や橋、暖色の灯りに包まれた路地 | Photo ©田口杏奈

 フィレンツェはどこへ行っても絵になる場所ばかりで、ここぞとシャッターを切るものの、写真には収まりきらない感動がある。1年間という限られた時間で、大好きな街をしっかりと目に焼き付けながら四季折々のフィレンツェを思う存分楽しんでいきたい。

フィレンツェ小話 その1

 今住んでいるアパートの話。フィレンツェの玄関口と言えるサンタ・マリア・ノヴェッラ駅から徒歩5分の場所にある私のアパートはなんと築800年。初めて聞いたときは驚いたけれど、中世〜ルネサンス時代に建てられた建築をそのまま生かしたアパートというのはフィレンツェでよくあるのだそうです。

Photo ©田口杏奈
共有の入口天井。中世の礼拝堂でよく見かけることができる様式(交差ヴォールト)の名残りがあります。
Photo ©田口杏奈
階段の石はルネサンス建築でもお馴染みのピエトラ・セレーナ。トスカーナ地方で採掘される少し青みがかった灰色が特徴の砂岩ですが、フィレンツェの教会でもよく見つけることができます。
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イタリアの鍵はかっこいい。オートロックですが、外出時と就寝時はこの鍵もかけます。

 よく見ると入口には当時の礼拝堂でもおなじみの天井様式が見られる他、ピエトラ・セレーナで造られた黒い石の階段、湿っぽい匂いのする廊下はどこか時空が歪んでいるかのように感じられる。私が借りている部屋はひとり暮らし用のワンルームでイタリアでは「モノロカーレ」と呼ばれるタイプ。ワンルームの中にキッチンがあり、トイレとバスルームが付いている。天井がとても高く、部屋の間取りが縦に構成されていて、室内の移動はどこへ行くにも階段を登るという独特な造り。フィレンツェにしては珍しく冷暖房も完備されているためひとり暮らしには十分。

Photo ©田口杏奈
異空間の廊下とは裏腹に部屋はリノベーションされています。キッチンとバスルームは左手の階段を登る仕様。縦に2mくらいある窓がお気に入りです。
Photo ©田口杏奈
収納がたくさんあるキッチン。
Photo ©田口杏奈
壁に埋め込まれた冷蔵庫。貼ってあるのは友達のPedro Nekoi(グラフィック・デザイナー)が作ったカレンダー。日本から持って来ました。
Photo ©田口杏奈
小ぶりな大理石の洗面器はちょっとかわいい。

 ちなみにルネサンス時代にタイムスリップすると近所に画家のサンドロ・ボッティチェッリが住んでいるが、現在彼はそのすぐそばにあるオニッサンティ教会に眠っているので実は今でもご近所さん。こちらの教会は、ボッティチェリの『聖アウグスティヌス』やドメニコ・ギルランダイオの『聖ヒエロニムス』、ジョット・ディ・ボンドーネの『十字架磔刑』など、見どころ満載でおすすめ。

Photo ©田口杏奈
『聖アウグスティヌス』 はヴェスプッチ家の依頼で制作されたフレスコ画。子供の頃、NHKの「名曲アルバム」で観て強く胸を打たれた作品で、まさか将来この絵のすぐそばに住むことになるなんてびっくりしています。
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ボッティチェリの墓。彼はここに眠っています。
Photo ©田口杏奈
ボッティチェリが住んでいたポルチェラーナ通り。彼はここに工房を構えて晩年まで暮らしていたそうです。どの建物かは諸説ありますが、現在史跡としては存在していません。
Photo ©田口杏奈田口杏奈 Anna Taguchi
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1983年生まれ。京都造形芸術大学芸術文化学科卒業。西洋美術史の研修以来、久しぶりに訪れたフィレンツェで修復されたばかりの『東方三博士の礼拝』(レオナルド・ダ・ヴィンチ)に出会い、感銘を受ける。同時にルネサンス美術とメディチ家に没頭、以降自主研究が日課となり、現地へ訪れるたびにフィールドワークを重ねる。また、いつか自分もルネサンス美術の存続に貢献したいという想いからパラッツォ・スピネッリ日本校、絵画修復エデュケーション・センターで絵画修復の技法・理論を勉強。2026年1月からフィレンツェに留学中。趣味はイタリア映画鑑賞とロケ地巡り。