文・撮影 | 小嶋まり
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今日はただの日記を。
朝起きたら腰が痛い。寝室にエアコンがないので、おもちとさばのためにクーラーをつけっぱなしにしている居間のソファで寝ているせいだと思う。7年間空き家だった場所を住める環境にするためにクーラーを2台新調して、それだけで40万はかかってしまっている。これ以上エアコンに投資したくないけれど、この腰の痛みと戦うのは辛い。難なく身体が整う生活を送ることを優先させお金を使うようになるなんて。
昨日の夜、寝る前に江戸時代の料理本『料理伊呂波包丁』にも記述があったという〟なすびめし〝のレシピを見つけた。焼きナスをご飯にのせてワサビと黒胡椒を添え、出汁をかけて食べるというとてもシンプルなものだった。朝起きたら絶対これを食べてやると心に決めた。早起きして身の回りのことを終わらせて、ナスをグリルに入れて丸焼きにした。グリルの中で最初はぷっくりと汗をかいていたナスが、次第に萎びて焦げ目がついていく様子を観察しているとわくわくする。おいしさがわたしに近づいてきている。20年前にもなるシカゴでの大学時代は、自炊なんてめったにしなかったし、ゴスのレイヴァーしかいないクラブを覗きに行ってからギラギラのゲイ・クラブを梯子して、ドアが引っ剥がされている男女共有トイレで友達と堂々と用を足したりするのにわくわくしていた気がする。いや、格好付けました、今でもきっとそんなことやってしまいそうだし、全然わくわくしちゃいますね。
今日は台風が近づいている。進路は逸れていっているかもしれないけれど、まだ雨足が弱いうちに、勝手口の棚に置いてあるものを家の中に移動させた。といっても、いらないものだらけである。ボロボロのほうき、錆びたスコップ、埃だらけの大きなたらい、底の抜けた靴。ゴミの分別方法を調べるのをいつも後回しにしてしまい、蓄積されていった不用品がこれでもかと棚に詰め込まれていた。とうに役目を終えたものを何往復もしてまた家の中に避難させている。
この連載で、45歳から片田舎で一人暮らしを始めたメイ・サートンの生活が書かれた『独り居の日記』の引用を何度もしていると思うけれど、最近ようやく彼女の『海辺の家』を読み始めた。これは彼女が60代に書いた日記をまとめた本で、老いや仲間たちの認知症や死と直面する描写が前作と比べて一気に増えている。読んでいて、これはわたしにはまだ早いかなと思ったけれど、こういう記述があった。
「私は日記を書くことは若人向きではないと思う。そこにはいつでも、書き手をナルシストよろしく自分の上にしゃがみこませ、自己耽溺でおぼれさせる危険があるからだ。日記が、その書き手にとっても将来の読者にとってもなんらかの価値を保つためには、書き手はその刹那刹那に経験することに客観的でなくてはならない。なぜなら、日記の意味のすべては、その時に起こりつつあることを捉えることにあるのだから。しかもその実質は、事実を物語ることからではなく、経験の吟味と、少なくともそれをエッセンスにまで煮詰める試みからくる」
ここまで鋭く刺されてしまった。若さゆえのヒリつきも素敵だとは思う。しかしそのヒリつきが後々辱めとなって戻ってくることは多々あるのは事実だけれども、それがトゲやら未熟さを滑らかにしてくれる経験、成長だと信じている。あと2週間足らずでわたしは42歳。ナルシシズムやロマンチシズムに浸ることなく己を客観的に見つめる作業、その過程にわたしはいるんだと思う。じりじり焦げてへしゃげた茄子は、ここぞとばかりに凝縮されておいしいのです。