文・撮影 | 小嶋まり
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ようやく残暑も落ち着いて、過ごしやすくなってきた。物置からテーブルと椅子を引っ張り出して縁側に置き、ガラス戸を全開にして仕事をすることにした。
だだっ広い田舎とはいえ、家の周りはなかなか騒がしい。近くに大きな建設会社があるので大きなトラックが行き交っているし、家の前の通りを挟んだところにある幼稚園はいつも賑やかだ。今日は幼稚園で運動会の練習をしているらしく、保育士さんのアナウンスや流行りの曲が大音響で鳴り響いている。なかなかの大きさなのでご近所さんたちは大丈夫だろうかと心配になるくらいだけど、この地域特有の許容量の大きさなのか無頓着さなのでしょうか、爆音も日常の一部として馴染んでいる。
今日の夜明けは、近所に住み着いている猫たちがうるさくて起こされてしまった。そういえばゴミ袋を玄関先に置いたままにしていたと思い、外を見ると、生ゴミがあちらこちらに散らばっている。やられた。薄暗い中、ビニール手袋をはめてゴミくずを拾い上げながら、まぁ腹を立てても仕方ないと自分をなだめつつ、ダストボックスにゴミ袋を入れ、蓋の上に重しもしっかり乗せて、また荒らされないようにする。わたしにとっては悩ましい被害なのだけれど、痩せこけた猫たちにとっては生き残りをかけた行為なのである。
常にいろんな尺度を持つものと関わって生きている、でもまぁそれが社会なのであるけれど、わたしの主張に固着するか、相手のために妥協するか、そんな小競り合いみたいなことについてよく考える。
海外の高校、大学共に授業でディベートをさせられたことを思い出した。肯定派と否定派に分かれて互いを陥れるような、論破じみたことをする。正解、正義というものを求める行為は交わることがない断絶を生み出すようで、相互理解から離れていくところに行き着いてしまう過程が怖かった。ポピュリズムを振りかざす二項対立の行く末だと感じる。
地元のスナックで不定期に働いているけれど、同志で集い、心地のよい環境に身を置きすぎていたわたしにとって、不特定多数のお客さんと話すというのはなかなかのカルチャーショックだった。政治的な価値観、ジェンダーや家父長制に対する考えかた、趣味嗜好などなど各々であり、わたしと真逆のかたもいらっしゃる。しかしここは商売の場、楽しい会話をするという任務がある。正反対のところからお互いの共感を模索して会話するというのはディスカッションの極みのようで、その過程で相手の生い立ち、生活、そして抱えていることなんかを垣間見る。好奇心からたまたま踏み入ったこの場で、交わることのなかった人たちと向き合うことはフィールドワークのようで学びは多い。
東 浩紀氏の『訂正する力』(2023,朝日新聞出版)が好きでちょくちょく読み返している。彼が運営している放送プラットフォーム「シラス」について自身が語っているのを何かのポッドキャストで聞いたけれど、シラスの会場観客はリベラル派 / 保守派がちょうど五分五分の割合になっていると話していた。お花畑的と言われてしまうかもしれないけれど、同志のみで固まらず、敵対意識を省いて互いの意見を交換できる場所、それはわたしがぼんやりと思い描いている理想のかたちだと実感している。