文・撮影 | 梶谷いこ
初めてのひとり暮らしは、4つの鍋から始まった。14cmと20cmのフタ付き片手鍋、鉄のフライパン、それから鉄の中華鍋。テフロン加工のフライパンを持つことは母が許さなかった。「便利でも、3年でダメになる物はいけん」。貧乏暮らしの財布の紐を握る母にとって、物を捨てるということはそれだけで罪だった。ましてや、たった数年でゴミになる運命のフライパンをわざわざ買って娘に持たせるなど認めるわけがない。実際、実家のフライパンはすべて鉄製で、どれも両親が結婚したときから使われているものだった。
ショッピングセンターにホームセンター。私は日曜が来るたび母の運転する軽自動車に乗り込み、母娘で鉄のフライパンと中華鍋を探して町中を回った。しかしどこの鍋売り場にもテフロン加工のものしか置いていない。そのたび母は溜息をつき、嘆いた。「すぐゴミになるようなものしか売らんようになるなんて、世も末だ」。まだ「Amazon」も「楽天」もない頃だった。インターネットで検索をして欲しい物を手に入れられるようになるまでは、田舎町の買い物にはこんな苦労があった。
ずいぶんかかってやっと見つけたのは、町に上陸したばかりのプロショップの店内だった。鍋売り場にはレストランの厨房にあるのと同じ、鉄のフライパンや中華鍋がサイズ違いでずらりと並んでいた。夢にまで見た光景に、母と私は揃って売り場にしゃがみこみ、嬉々としてサイズを検討した。選んだのは、22cmのフライパンと30cmの中華鍋。手に持つとずっしり重く、無骨な見た目の調理器具は、下宿先の5帖一間のアパートの台所には不似合いなほど本格的だった。
片手鍋は珍しく私に選択権が与えられた。20cmの大きさのほうは、ショッピングセンターのワゴンに積んであった中から選んで買ってもらったものだ。傷ひとつないステンレスの鍋の輝きが、当時の私にとって将来のひとり暮らしの夢そのものに思えた。まだ高2の夏だった。大学へ進学する直前は出費がかさむ。ひとり暮らし用の家財道具は、高校の3年間をかけて少しずつ買い揃えていった。ピカピカのステンレスの鍋を見て、母は「そんなのすぐキズだらけになる」と嫌がったが、「たとえキズだらけになっても大切に長く使う」ことを条件に渋々買ってくれた。14cmの小さな片手鍋は、相当ねだって買ってもらった。商店街の一番端にある金物屋の軒先に、子どもの頃からぶら下がっていたものだった。アルマイト製で、フタと胴体が赤く塗られている。小さな花の模様が昭和風味で、それが妙に心惹かれた。鍋にかけられたビニール袋にはホコリがたっぷりかかっていたが、塗装はきれいな色のままだった。
私はこの鍋を買ってもらうために、母に向けてしつこくプレゼンをした。ひとり暮らしでは大量にお湯を沸かすことも滅多にないだろう。お湯を少しだけ沸かしたいとき、この大きさならガス代を無駄にすることなくすぐに沸かすことができる。アルマイトならステンレスより熱伝導がよい。ゆで卵を1、2個作るのにも便利そうだ。必死のプレゼンの甲斐あって、私はなんとか鍋代を得ることに成功した。その日、母から渡された千円札2枚を握りしめた私は商店街まで自転車を飛ばし、それまで前を通り過ぎるだけだった金物店の前に自転車を停めた。
赤い小さな片手鍋は、この日も店の軒先にぶら下がっていた。何年ものあいだ外から眺めていたこの鍋を今日、ついに手に入れるんだ。私は意を決してガラスの引き戸に手をかけ、初めて店に入った。高鳴る胸の音に反して、店の中はしんと静まり返っていた。年老いた店主の男は鍋や工具に囲まれ、「いらっしゃい」とも言わず奥の帳場にいた。私は黙ったまま、恐る恐るホコリが降り積もった鍋をフックから下ろし帳場に持って行った。しかしそれでも店主はうんともすんとも言わなかった。カビ臭い店内に、品物はそう多くは置いていなかった。私は色褪せたラベルシールに書いてある金額を無言で払い、鍋を手にして店を出た。店主の声色は最後までわからずじまいだった。それは床に寝そべった老犬が、少しだけまぶたを持ち上げこちらを見て、再び目を閉じるような時間だった。
しかし実際、ひとり暮らしで一番重宝したのはこの小さな赤い片手鍋だった。まずお湯がすぐ沸く。テスト勉強中の真夜中など、ひとりきりのティータイムにはとりわけ大活躍した。ゆで卵は今まで何個茹でたかわからない。小腹が空いたとき、そうめんを1束だけ茹でるのにもちょうどよかった。まさしく私が母へプレゼンした通りの働きをしてくれた。
下宿先に持参した4つの鍋の中でも、とりわけ母がこだわったのが鉄の中華鍋だった。母は、大きな両手鍋を持たせることはなぜか頑なに拒み、その代わり中華鍋を活用するよう私に勧めた。カレーを作り置きするのも、パスタを茹でるのにも使えると豪語した。私はそれに従った。しかし、茄子のカレーを作ればカレーの塩気と茄子の色素と鉄分とが反応を起こし、イカスミパスタのソースのような真っ黒のどろどろができた。食べると錆の味がした。パスタを茹でれば、食後、洗い物をする頃にはドーム型の鍋肌一面に薄くびっしり錆が付いた。
この使いかたは絶対に間違っている。少し面倒な鉄の鍋の使いかたを、私は肌で知っていった。その後結局、手頃なアルミの両手鍋を自分で買った。母が買って持たせてくれた4つの鍋に、自分で買ったアルミの両手鍋。大学を卒業してしばらくは、この5つの鍋で煮炊きして食べていた。変化があったのは、結婚した直後のことだった。誰かに結婚の報告をするたびに、宅配便のチャイムが鳴るたびに、鍋がひとつずつ増えていった。冗談ではなく本当に、日毎に、鍋が増えた。そのうちひとつは、自分でリクエストしたものだった。地元の友達から、結婚祝いに何か欲しいものはないのかと訊かれて「ストウブの鍋」と答えた。そのときはこんなことになるとは思っていなかった。後日、20cmのストウブの鍋が届いた。深い茄子色をしていた。
友達からは「いこちゃん、こんな重い鍋が欲しいなんて変わっとるなあ」とからかい半分に不思議がられた。箱には地元の百貨店の包装紙が掛かっていた。それを見て、百貨店のリビング用品売り場で鍋を持ってぎょっとしている彼女の姿が頭に浮かんだ。物がない田舎町での買い物の苦労は知っている。忙しい中、わざわざ百貨店の売り場まで行って探してくれたことに頭が下がる思いがした。
予定のない日曜日。無為に過ごしてしまった日は夕方から鍋を磨く。「ボンスター」にクレンザーを付けて磨くとピカピカになる。それでやっと、何かしたという気分になれる。ステンレスの鍋を磨くのは特に楽しい。コンロに焼かれて煤けた鍋肌が、一皮剝けたような新品同様の姿に生まれ変わる。高2の夏、「たとえキズだらけになっても大切に長く使う」と母に誓った片手鍋も、磨けばまた輝き出す。
赤い小さな片手鍋を買った地元の商店街は、数年前にアーケードが取り外されたそうだ。財政難でアーケードを維持することができなくなったと聞いた。一応は「商店街」ということになっているが、今やもう店もまばらだ。あの老犬店主が帳場に鎮座してた金物屋は、当時ですら崩れ落ちそうな古い古い建物だった。どうせもう今はなくなっているだろう。そう思ってスマホで店名を検索すると、しかし、なんとまだそこにあった。口コミが1件付いていた。「金物専門店でレトロな昭和のお店です!懐かしい雰囲気の中で昭和の金物が購入出来ます(^^)」。評価は星4つ。すっかり朽ち果てて、廃墟のような店の写真が添えられていた。
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1985年鳥取県米子市生まれ、京都市在住。文字組みへの興味が高じて、会社勤めの傍ら2015年頃より文筆活動を開始。2020年、誠光社より『恥ずかしい料理』(写真: 平野 愛)を刊行。雑誌『群像』(講談社)、『Meets Regional』(京阪神エルマガジン社)等にエッセイを寄稿。誠光社のオフィシャル・サイト「編集室」にて「和田夏十の言葉」を連載中。