文 | 波田野州平
Photo ©東京藝術大学大学院映像研究科
「この音なあに」とブランコを漕ぎながら尋ねる少女の声は奪われている。聞こえてくる乾いた音は、激しく揺れる子供たちの発する擬音語によってかすかにしか聞き取れない。少女の隣で同じくブランコを漕ぐ少年が声を張り上げて答えるが、やはり少年も声を持ってはいない。そして巨魚(いさな)の到来を告げる地鳴りと波音によって、ふたりはそれぞれ反対の方向へと、少年は飛び上がり、少女は背後に倒れ、沈んでゆく。その日から伸ばし続けた少女の彷徨う手がようやく掴んだのは、少年の手ではなく、文字通り手掛かりの全くない白い布だった。そして少女自身の手によって布はしゅるしゅると巻き上げられ、映画は現在の幕を開ける。
灯油と電熱とファンヒーターという3種の暖房器具に守られた半裸の彼女の視線の先にあるものは、赤いマニキュアを塗った鍵盤を叩く指だ。赤い指は楽譜を探しながら乾いた音を奏で、うまく思い出せないとつぶやくが、音により思い出したのは彼女の方で、またしても背後へ卒倒する。彼女はタングステンフィルムの青に飲みこまれたまま、ずっと繰り返される夢を見ているのだろうか。
この時の一連のアクションは、カットを分けられることなく同一フレーム内で重なりあうように生起し、そこにフレーム内にはないものの音響がこだまし始める。そうしてこの映画の密度はどんどん高まってゆくが、同時に時間感覚はほどけてゆくという、この映画に特有の奇妙な二律背反を私たちは味わい、その緊密と緩和の波に揺り動かされることは喜びになっていく。しかしそのくんずほぐれつのいい感じのヴァイブスに揺られている間も、やはりひとつだけ抜け落ちているものがある。それが彼女の声である。
映画はここから古典的な手法を駆使して、私たちが現在だと信じていたものを奪い去ってゆく。その間もやはり彼女は一度も声を発することはない。彼女がせいぜいできることは、振り返るというアクションだけだ。
映画の後半で彼女は、あの日から打ち捨てられ、蔦が絡まるままになった軽トラックから降ろしたママチャリで、向こう側から波音だけが聞こえる黒い璧の前を通過する。その時、映画はここから去ってしまった者たちの声を波音に混ぜて提示する。その声は残されたものをかすかに揺らす。そして声が咆哮に変わる時、彼女は振り返るだけでなく、この映画の中でただ一度だけ、うつろだったその肉体を懸命に運動させる。しかし、それがこの映画の最高到達点ではない。
海中深くに沈んだ巨魚は、ここにいない仲間に呼びかける時、歌を歌う。その歌は光の届かない深海を駆け抜けて、遥か彼方まで届くという。声を奪われた彼女の沈黙を、闇の奥から放たれた歌を聞き取るためだと理解するのはたやすい。しかし歌とともに姿を現した少年と彼女がかすかに見つめ合った後、彼の放つ決定的なひと言が私たちの耳に届く時、私たちは戸惑いながらも、この映画がさらなるスケールを獲得したことを知るだろう。そして今一度、この映画のタイトルをつぶやいてみることは、あまりにもできすぎたことだろうか。
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映画作家
主な作品に『TRAIL』(ユーロスペース、2013年)、『影の由来』(東京ドキュメンタリー映画祭短編グランプリ、2018年) など。
第13回恵比寿映像祭 Retouch Me Not [日本現代作家特集] にて、『私はおぼえている:長田はつ子さんと海女の記憶』が上映されます。
■ 『とてつもなく大きな』
川添彩監督作品 特集上映
https://zoeayafilm.com/
2021年4月24日(土)-5月7日(金)
東京 渋谷 シアター・イメージフォーラム
TBA
[上映]
| 『とてつもなく大きな』
2020年 | 日本 | 16mm | カラー | 11分
第73回カンヌ国際映画祭 批評家週間短編部門 正式出品
第58回ニューヨーク映画祭 カレンツ部門 正式出品
第4回ブラック・キャンバス・コンテンポラリー映画祭 ビヨンド・ザ・キャンバス部門 正式出品
| 『きりはじめて、はなをむすぶ。』
2012年 | 日本 | デジタル | カラー | 10分
第26 回イメージフォーラム・フェスティバル ジャパン・トゥモロウ部門 大賞
| 『ぞうが死んだ』
2012年 | 日本 | super8 | カラー | 8分
第58 回オーバーハウゼン国際短編映画祭 インターナショナル・コンペティション部門 正式出品
| 『姉と弟 こどもと大人(とそうでないひと)』
2014年 | 日本 | デジタル | カラー | 43分
第28回イメージフォーラム・フェスティバル ジャパン・トゥモロウ部門 正式出品
第14回ニッポン・コネクション ニッポン・ビジョン部門 正式出品
第12回ブリィヴ・ヨーロッパ中編映画祭 メイド・イン・ジャパン部門 正式出品