Review | トマス・ピンチョン『重力の虹』 | 世界の難読書を読む


文・写真 | コバヤシトシマサ

 難読書に挑戦して読んでみるというのがここしばらくの関心事で、自己満足的な趣味との認識はありつつも、ここに来てその最難関と言える書籍へと事は及んだ。トマス・ピンチョン『重力の虹』(1973)。ご存じだろうか。20世紀文学の最極北とされる作品で、その読解不可能性(?)は、ほとんど文学界のモノリスを成していると言っても過言ではない。過言かもしれない。とにかくそんな小説で、実はずいぶん前に国書刊行会から出た本邦初の翻訳版(1993)を入手していながら、長らく本棚に差し込まれたままだった。それをこの度、えいやっと引き抜いてみた次第。

 最大の難読書か。その前評判はまったくもって正しかった。本書は通常の意味での小説ではあるし、読み手がつまづくような難しい言葉が出てくるわけでもない(唐突に意味不明な化学式が出てきたりはするけど……)。平易な言葉を使って書かれたこの小説が、ではなぜそれほどに難読なのか。つまるところそれは、この小説にストーリーがないからだと思う。誤解なきよう付言すると、本作にも設定はある。登場人物には国籍も性別も来歴もある。第二次世界大戦の戦中 / 戦後のヨーロッパが舞台になっていて、戦時下の様々な状況が描かれてもいる。しかし時系列のストーリーというか、時と共に進展してゆく“おはなし”がほとんどないのだ。やたらと多い登場人物たちがあれやこれや立ち振る舞うも、それらはいわば映画の台本におけるト書きのようなもので、端から書き飛ばしたかのような筆致がその特徴になっている。主人公のタイロン・スロースロップがかれらと呼ばれる組織から逃げるだとか、あるいは彼の仲間が死んでしまうとかいう場面もあるにはある。しかしそれらは総じてダイジェスト映像のひとコマのようなものでしかない。ピンチョンの筆は、人間やその情感をじっくりと書き継いだりしないのだ。『重力の虹』がポストモダン文学の、あるいはメタフィクション文学の最高峰と呼ばれるのを知っていたので、本作がありきたりな小説の形式を逸脱しているであろうことは事前に承知していた。しかしここまで徹底されているとは。

 というわけで、この小説には時とともに進行するストーリーがほとんどない。ゼロとはいわないけども。ではこの長大な書物にはストーリーでなく何が書かれているのか。端的にいうと、本書は本筋とは関係のないディテールに溢れている。映画などによくある作品で、本編とは異なり、脇役に焦点を合わせた別作品を“スピンオフ”とか呼ぶけども、本作はいわばスピンオフの断片の集積と考えてもらっていい。多様な人物の様々なサブストーリー、本筋とはあまり関係のないそれらの断片が次から次へと続く。それらはダイジェスト映像のような性急さで展開し、ときに説明なく切り替わるため、読者にとってはそこが難読ポイントになる。なんとなくニュアンスは伝わるだろうか。あるいはこうも言える。1冊の本をパラパラと試し読みすることがある。開いたページをざっと斜めに読み、しばらく先のページをまたぞろ開いては、目についたひととおりのセンテンスを読む。よく試し読みでそんなことをするけれども、その読みをそのまま長編小説として構成したのが本作だと言ってもいいかもしれない。

 描写もかなり独特である。比喩や喩え話みたいなのが延々と続き、しかしどこまで行っても本線となるストーリーが登場しないため、だんだんそれが喩え話なのか、現実の描写なのかが不明瞭になってくる。要するに読んでいるうちによくわからなくなってくる。例えば本作のメインテーマであるロケットについて。ドイツが開発したV2ロケットなるミサイルが全編を通じてのストーリー的な主軸になっていて、一応のところ、それを巡っての顛末がこの小説だと言える。このV2ロケットは主人公スロースロップの男性器、率直にいうとその勃起に関連しており、両者には明白な相関関係がある(と言われても、いったい何のことやらと思われるだろうが)。ともかくV2ロケットの発射と主人公のペニスには相関がある。もし仮にミサイルを男性器の象徴として書いたなら、そこには読解の余地もあるわけだけれど、本作では両者に具体的な相関関係がある。だから両者の比喩やメタファーといった関係は消失してしまうわけだ。逆に言うと、比喩やメタファーばかりで本線がないのがこの小説だと言っていい。たしかにそれは小説としては極北に位置すると言える。とくに驚いたのは最終部。そこではV2ロケットの発射と思しきものが描かれるが、そこではもはやロケットと男性器とは、ほとんど区別ができない。

発射準備段階

超特大の白い蠅。いや、勃起したペニスが白いレースのなかで、ブンブンうなっているのだ、血だか精液だかをこびりつかせて。
――トマス・ピンチョン『重力の虹』1993, 国書刊行会 II巻 p468

 これが現実の描写なのか、比喩なのか、読者は判別できない。少なくとも自分は判別できなかった。本作は一貫してこの調子であり、読者としてはともかく書かれた通りに読むしか術がない。深読みも、考察も、あまり意味を成さないような作品なのだ。本作を評価するかどうかは別として、少なくとも1973年の時点で文学はここまで到達していたとは言える。でもなんだか腑に落ちない気がするのも確か。即物的な記述に終始し、言外の余白のようなものはほとんどない。具体的な例をひとつ挙げる。第二次大戦とその戦後が舞台になっている本作には、しかし戦争がどのようにして終わったのか、人々はその終戦をどのように受け取ったのかが、一切書かれていない。第二次大戦が終わったことは、あまりにそっけなく、一言で説明される。

いままた平和がよみがえり、一九四五年五月八日の戦勝記念日の夜、トラファルガー広場には鳩のいる場所もないほどだった。
――トマス・ピンチョン『重力の虹』1993, 国書刊行会 I巻 p354

 本作を陰謀や策略についての物語とする向きもある。しかしどうだろう。くり返すなら、本作はロケットと男性器との具体的な相関関係から出発し、その関係についての様々な憶測、見識、余談が披露される。超能力、心理学、霊媒、統計学、化学、資本、血筋、魔女、フリーメーソン等々。あらゆる方法を使ってロケットとペニスの関係は追跡されるが、そうした誇大妄想的なイメージが、深淵な意味を誘発するというよりは、むしろそのバカバカしさを浮き彫りにしている。陰謀や策略が進展したそのすぐあとには、美女が海中の蛸に襲われるというエピソードが始まるのだ。作者ピンチョンの意図が何であれ、本作は陰謀蠢く戦史の裏側のようなものを書いた作品ではない。思いついたモチーフを次から次へと書き飛ばしただけのようにも読めるし、これだけ膨大な誇大妄想を書き継ぐということ自体が恐るべき才能とは言えるけども、しかしこれを単純に傑作と言っていいのかどうかよく判断できない。まあ、ある種の狂気ではある。

 というわけで、本書をかいつまんで紹介するのにはほとんど意味がないように思う。というより、それは不可能だ。よって本作の流儀に従い(?)、ロケットについてのパラノイアに徹することにする。V2ロケットに関する膨大な記述の中で、特に奇妙だったのは絶縁体を成すというミサイルの部品について。ラスロ・ヤンフなる人物によって開発され、イミポレックスGと命名されたその芳香性ポリイミデは、プラスチックの一種だ。軍事産業とプラスチック開発という奇妙な並びは、本書を通じて何度も変奏される。戦争とプラスチック、ミサイル部品としての芳香性ポリイミデ。この重さと軽さの対比は、そのまま本作の内容に通ずるもので、第二次大戦を舞台に下品な下ネタを連発する本作のちぐはぐさにも通じている。ミサイルとプラスチック。戦争小説としての『重力の虹』。

 本筋であるV2ロケットの顛末についてもう少し触れておこう。首謀者ブリセロが発射したという00000ミサイル(ゼロが5つ)を巡って本作は進むのだけれども、驚くべきことに、最終的にブリセロがこのミサイルを発射したのかどうかは、あまり明確にされていない。

最後のロケットが発射されたあと、ハンブルグまで夜の工程は記憶から抜け落ちている。
――トマス・ピンチョン『重力の虹』1993, 国書刊行会 II巻 p365

ロケットは南へ、西へ、東へと発射された。しかし北へは発射されなかった
――トマス・ピンチョン『重力の虹』1993, 国書刊行会 II巻 p411

 最終部で“出発”し、“上昇”し、“下降”したのはV2ロケットだったのかどうか。本書の主旨からして、普通に考えるなら、おそらくはそうなのだけれど。しかしどうにも判然としないのも事実。ロケット = ペニスという疑いようのない明白な同一性が、最後の最後、読者をメタファーによる攪乱に落とし入れる。

〈かれら〉それぞれに対応する〈われら〉ってものが存在するはずだ。
――トマス・ピンチョン『重力の虹』1993, 国書刊行会 II巻 p321

自分自身に関する妄想のことを、おれは〈われら〉のシステムと呼んでいるが
――トマス・ピンチョン『重力の虹』1993, 国書刊行会 II巻 p322

 なるほど。かれらに対抗するのはわれらしかない。そして自分自身に関する妄想については、それが現実なのか、比喩なのかは、ほとんど問題ではないのかもしれない。

 ちなみに自分は旧訳で読んだのですが、新潮社から出ている新訳は格段に読みやすいらしいです。

Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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会社員(システムエンジニア)。