Review | 管 啓次郎『コロンブスの犬』 | 本当に好きな本について


文・写真 | コバヤシトシマサ

 本ばかり読んでいる。ひとくちに本を読むといっても、その理由は人によって様々だろう。小説の物語世界に没入する楽しみであるとか、あるいは知識や見聞が広がる悦びであるとか。自分については後者の傾向が強い。フィクションや小説の類いはあまり読まなくなった。それよりは書き手の人となり、その視線や感じかたを直截に知りたいとの意識が強い。彼 / 彼女がどんなふうにこの社会を眺めて、何を感じているのか。そんなのが知りたくて本を読んでいる。別段本を読まなくとも、誰かと会って話でもしたなら、相手の口から発せられる言葉には多かれ少なかれそうした含意がある。大げさに言うなら、そこに彼 / 彼女なりの哲学を垣間見ることができるかもしれない。それでも書かれた言葉にしか表せない領域というのがあるのも確かで、それは話し言葉にはない。その手触りを求めて本を読んでいる。

 本当に好きな本を紹介したい。管 啓次郎『コロンブスの犬』(1989, 弘文堂 | 2011, 河出文庫)。書かれた言葉でありながら、話し言葉のように親密で、しかし時に思弁的でもある。その時々の気分でそれらの領土を移ろっていく。本当に好きな本なので、うまく紹介できるだろうか。1冊の本を好きになってしまうと、そこに書かれた言葉に感染してしまい、自分のボキャブラリーが失われるかのような事態が、読書では時々起こる。

 著者である管 啓次郎(すが けいじろう)は詩人であり、翻訳者であり、文学者。明治大学の大学院でコンテンツ批評、映像文化論を専門とする教授でもあるそうな。本書は彼の1984年のブラジル滞在について書き留められた文章を集めたもの。サンパウロの街を歩いたこと。友達と行ったコンサートのこと。学校に通いながら食べた昼食や、アパートの上の階に泥棒が入ったこと。これは異国について書かれた紀行文であり、日々の記録でもあるけれども、読んだ感触としては詩そのものだ。多くの読者のために出版された刊行物でありながら、特定の誰かに向けて書かれた手紙のようでもある。精神の揺れ動き、そこに差す南米の太陽の殺伐が、さりげなくも意味深な文体で記述された本書。爆発しそうな情熱が、なぜか冷ややかに横たわっている。こんな本が他にあるとするなら、本書の続編と言える同じく管 啓次郎による『狼が連れだって走る月』(1994, 筑摩書房 | 2012, 河出文庫)くらいだろうか。

Photo ©コバヤシトシマサ

 管は旅についてこう書き始める。

ときにはこんなふうに思う、もうすべての旅は試みられてしまった、残された未知にの地帯はどこにもない
――管 啓次郎『コロンブスの犬』2011, 河出文庫 p11

 これは紀行文であって、紀行文ではないのだ。自身の旅についての管の言葉をさらに引いておこう。

その旅は〈目的〉を設定する旅、生産的な旅からは、かけはなれたものだ。むしろあらゆる資格を自分から剥奪する旅、自分自身にさえ知られない匿名性へと帰ってゆく試み、絶対的に異郷にあることを経験しようとする冒険だ。
――管 啓次郎『コロンブスの犬』2011, 河出文庫 p20

 わたしがわたしでなくなってしまう。それは旅の醍醐味かもしれない。自分にもなんとなく身に覚えがある。“自分自身にさえ知られない匿名性へと帰ってゆく”旅のなかで、管は土地の声を頼りにする。彼の著作に一貫するのは、土地の歴史に耳を傾ける態度だ。異国の地で聞く声を、管は丁寧に書き留める。ラティーノたちが話すポルトガル語の渦中にあって、管は日本語でそれを記した。サンパウロの中心近くには〈日本語〉がドミナント(p226)でもある東洋街もあるそうだけれど、それでも母国語が流通しない異郷にあって、母国語 = 日本語を書き綴るのはどんな気分なんだろう。それは孤独だろうか。管は新聞で目にしたフェデリコ・フェリーニの言葉を本書に記している。いまでは人間は孤独を恐れ、自分自身を恐れているんだ」(p206)。新聞に印刷されたかのイタリア人映画監督の言葉は、管の心の内でどんな風に響いたのか。

 学生ヴィザの取得。サンパウロの街。ムラータ(褐色の女)。あるいは旅を記録することの意義について。なによりこの本はその詩的な比喩、具体と抽象とのコントラストが素晴らしい。優れた芸術がいつもそうであるように、個別な事象について書かれていながら、それは普遍になる。終始一貫して一人称的に書かれた本書は、しかしまぎれもなく普遍に属す。つまりこれは大詩人の仕事だ。

 少し力んでしまった……。「コロンブスの犬」というタイトルについて。かつて新大陸を目指したコロンブスが、その船に積み込んだ犬たち。管はそれを本書のタイトルにしている。

いつかブラジルの旅行記を書くときがきたなら、その旅行記に「コロンブスの犬」という題をつけようと、そのときぼくは決心したのだった。
――管 啓次郎『コロンブスの犬』2011, 河出文庫 p292

 しかし後に彼は知ることになる。スペイン人が新大陸を征服した際、獰猛な犬たちと、インディオたちとの憎悪は、残忍な解けがたいものになった。スペイン人たちはすぐにそのことに気付いて、いたることろで軍用犬を使うことになった。植民地征服のあいだに、何千という土人が牙でのどを食いやぶられて死ぬことになる(p292 | カール・ヴェルリンデン『コロンブス』今野一雄訳)。

ぼくはこのタイトルをあきらめた。それ以来、ぼくのブラジルへの旅行記は放棄され、いまでも中断されたままだ。
――管 啓次郎『コロンブスの犬』2011, 河出文庫 p293

 とりとめのない感想文になってしまった。もともとこの本がとりとめのない本なのだから、仕方がないともいえる。自分の体験を、自分の語彙を使って書く。自分でしかないことは豊かさでもあり、貧しさでもある。それを言葉にするのが、これほどの情景を生み出すのを、この本で初めて知ったと思う。

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Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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会社員(システムエンジニア)。