Review | 上島竜兵『これが俺の芸風だ!!』


文・写真 | コバヤシトシマサ

 上島竜兵はいつでも所在なげな表情をしている。そこが好きだ。

 ダチョウ倶楽部はお笑いの新しいルールをいくつも作ってきた。弱肉強食のお笑いの世界(実際のところは知りませんが……)で、長いキャリアを持つ彼らは、ほとんど偉人といっていい。洗練とは無縁、すぐに裸になっては、バカバカしい無茶をやってみせる大人たち。「押すなよ、絶対に押すなよ」。悲痛な訴えも虚しく、熱湯風呂に撃沈していく上島さん。這う這うの体で風呂から這い上がり、熱湯で茹った体を氷で慰めつつ、涙ながらに激白する。「お前ら、訴えてやる!」。そんなとき、上島さんはいつでも所在なげな顔をしている。笑いの場の中心にありながら、いまさっき唐突に連れてこられた部外者のような顔でそこにいる。そんな彼を見ているうち、なんともいえない胸騒ぎが押し寄せる。愛くるしさと、ざらついた違和感とがないまぜとなった感情。

 よく知られる通り、ダチョウ倶楽部の芸は“お約束”が通例になっている。彼らがテレビの画面にあらわれた途端、ニヤリとしたくなるムードがあたりを覆う。(おや、いつものアレが始まるぞ)。あのムードがたまらなく好きだ。声を張り上げ、強引にストーリーを展開していく肥後さんと寺門さん。巧妙な話芸とはいえないのかもしれない。それでもあのやりかたでしか到達し得ない高揚がまずあって、すぐに期待と不安が頭をよぎる。今回の“お約束”はうまく決まるのだろうか、あるいはまたもや失敗してしまうのか。

 そう。彼らの“お約束”は時として破綻してしまう。ひと通りのストーリーが展開され、上島さんによるオチが披露されるも、予定調和とはならず失敗に終わってしまうことも間々ある。一般に“すべった”と呼ばれる現象。そんなときに上島さんが見せる、バツが悪いような、しかしどこかいたずらな心を見せる表情が好きだ。それは反省であり、開き直りであり、しかし単にそれだけのものではない。僕たちの誰もがその人生で経験する、ぎこちなくて場違いな感覚。そうした違和感をお笑いの舞台で何度も見せる上島さんに、勝手ながら連帯感すら覚えてきた。彼の芸は、身をもって示されたひとつの人生観のようなもの。どうにもならなかったとしても、どうにでもなるじゃないか。そんな大らかな寛容さがある。オチの後、涙ながらに心情を訴えるあの芸風は、大人のみっともなさを文字通り体を張って肯定している。別にみっともなくったっていいじゃないか、と。

 ただのいちファンによるこうした思い込みこそ場違いなのかもしれない。上島さんにはそのような意図はおそらくなかっただろう。当人はただ裸になって、バカをやっていただけ。その姿を見て、僕は笑っていただけ。上島さんの最大のミッションは、人びとを笑わせることだった。

Photo ©コバヤシトシマサ

肥後 「今まで生きてた中で、人生で会った中で、竜ちゃんは1位か2位の馬鹿(笑)。芸人としては、最高だけどね。人間としてはホント馬鹿。うそつきだし、泥棒だし」
上島 「泥棒?」
肥後 「太田プロの給料日がいつも一緒なのね。そん時に給料もらったら、こいつ、その日のうちに給料を全部つかっちゃうの。家賃とか全部関係なく。俺に小遣いくれて、飲み代も全部出して、若手にもお金全部あげてね。帰りに金がない、金がないって泣く(笑)。シャレでやってるのかなって思ったらマジなのよ」

――上島竜兵『これが俺の芸風だ!!』 | 竹書房

 寅さんの映画が好きだったという上島さん。上のエピソードはそのまま寅さんみたいだけど、もちろん寅さんよりもずっと下品で、ずっとバカバカしい。なぜそこまでして下品でバカバカしいことに心血を注いだのか、その問いにおそらく答えはない。もともと俳優を目指して上京した上島竜兵は、様々な思惑と運命とが重なった結果、何の因果かお笑い芸人となった。バカをやっては笑わせ、時には笑わせることに失敗し、生きた。他の人生と同じように、うまくいくこともあれば、そうでないこともあったが、上島さんはそれを公衆の面前で堂々かつ恥ずかしげに演じてみせた。

 「みっともなくったっていいじゃないか」とは上島さんは語らなかった。それでも当人の意図を越えたメッセージとして、少なくとも僕のところにまでそれは伝播した。それが芸の力なのか、人間の力なのかは不明だけれども、いずれにせよ上島さんにはそれがあったということになる。人々をエンパワーメントする成功哲学ばかりがやたらと溢れる今、上島さんのような生きかたはますます必要になるはずだった。みっともなくったっていいじゃないか。

 上島さん、どうもありがとうございました。

コバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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Photo ©コバヤシトシマサ会社員(システムエンジニア)。