Review | 散歩 | 夜の散歩をしないかね


文・写真 | コバヤシトシマサ

 わけあって、しばらく酒をやめている。わけあって、なんてもったいぶった言いかたをしてしまった。なんのことはない。勤務先の健康保険組合が実施する年に1度の人間ドックを控えており、そのための急場しのぎの対策として禁酒しているのだ。実は昨年の診断で血液検査をした際、γ-GTPの数値が正常値を大きく超えてしまい、そのときも1週間ほどの禁酒をして臨んだのだけれど、今年は満を持して(?)2週間の完全断酒を決行するに至った。ちなみに、普段はたいてい毎日飲んでいる。

 中年の健康談義は本稿の主旨ではない。それは「AVE | CORNER PRINTING」というメディアにふさわしくないようにも思うので、これ以上の詳述は控えよう。しかし“中年と健康”というこのあまりにありきたりなテーマにも、教訓はある。覚えておいてほしい。中年になるにつれ、人は多かれ少なかれ“健康”という通俗的な要件を受け入れざるを得なくなる。人間ドックを控えているから禁酒しよう、といった営みの、あられもない凡庸さ。そうしたものに、やがて誰しも足止めされる。中年になるとは、それを受け入れることでもある。

 本題に移ろう。飲む人間が飲まなくなると、夜は長い。すさまじく長い。こんな時分、飲まない人たちはいったい何をしているのだろう。テレビを見る習慣のない自分は、とくに困ってしまうのかもしれない。そんな折、手持ち無沙汰に困った挙句、散歩をするようになった。夕食の後、ひとり夜道を歩く。

Photo ©コバヤシトシマサ

 歩いていると調子がいい。身体だけでなく、精神的にもいい。前から思うのだけれど、例えば人との会話も、歩きながらするのが一番実り多いように感じる。歩いていると様々な着想が浮かんでくる。自分だけだろうか。にもかかわらず、世間では食事をしながらの会話がより重んじられる傾向にある。あるいはお酒を飲みながらの。「メシでも行こう」「ちょっと飲みに行こうか」というのは、腰を落ち着けてゆっくり話をしようという符牒でもある。そこにくると「散歩しよう」との提案は、食事やお酒ほどには一般的でない。そういえば以前何かで読んだことがある。共に食事をすることが互いの理解を深め、会話を豊かなものにするとの考えは、古今東西に普遍的なのだそうだ。例えばプラトンは『饗宴』を記した。『饗宴』は、ソクラテスら賢人が、食事をしながら語った内容の書き写しとして著されている。古代ギリシャの昔から、食事は実りある会話の源泉だった。しかし実のところ、自分としてはあまりこの感覚がしっくりこない。友との食事はいつでも楽しいものだけれど、たいていは満腹になるにつれ、脳はだんだん停滞し、頭はボーっとしてくる。必然、会話も止まりがちになる。それよりは歩きながらのほうが、ずいぶん捗るのではないだろうか(ところで最近、満腹になるのもずいぶん早くなった)。

 こういった事情も関係してか、せずか、ともかく夜のひとり歩きがルーティンとなった。これは日夜ウォーキングに精を出す中高年の振る舞いそのものかもしれない。無論、そうした通俗を受け入れるにやぶさかでない。通俗は中年期以降の生活の条件でもある。

 ひと気のない夜の街を歩いていると、改めて気付く。夜の街並みは変わった。飲み屋を含む飲食店の閉店時間がずいぶん早くなったんじゃないだろうか。大きな繁華街や盛り場はその限りではないだろうけれども、自分の地元はすっかり早仕舞いになった。コロナ以降というやつか。前はカフェのような店でも、けっこう遅くまで開いているところが多かったように思うのだけれど。看板が消えてひっそりした通りを抜けると、マクドナルドだけがひときわ輝いていたりする。客もまばらな店内、タッチパネルでオーダーし、番号札を手に注文を待つ。マクドナルドのアイスティは、アールグレイで悪くない。明るい店内と、真っ暗な窓の外。静まりかえっている。エドワード・ホッパーの絵画でなくとも、店にいる人たちがみんな疎外された者たちのように見えてくる。こうした情緒が、自分にはけっこう心地良い。通りの向こうの一軒家、その2階で誰かが眠っている。物音ひとつしない中、ふいにその誰かが寝返りを打つ。やはり物音ひとつしない。そのささやかな寝返りはこの夜の中心で、この世界の辺境で、人生の途方もなさの象徴でもある。それはほとんど詩だ。

Photo ©コバヤシトシマサ

 散歩の道すがら作ったのは、詩だけではない。それ用のプレイリストも作った。いつもイヤホンで音楽を聞きながら歩くので、そのためのプレイリスト。散歩の途中で入った閉店間際のドトールで、何の気なしに選曲を始めたプレイリスト。客のいなくなった店内では、掃除担当の店員さんが隣で至極丁寧に床磨きをしており、そのシチュエーションが妙に印象的だったのもあって、特別なプレイリストになった。歩きながらだと、音楽はすこし違って聞こえる。電車や車の窓から見える風景が移り変わっていくときも、音楽はどこか違って聞こえる。真っ暗な住宅街をひとり歩くときもそう。音楽と移動には、相乗効果のようなものがある。

 夜の散歩は他にも発見をもたらした。風変わりな雑貨屋を見つけて、夏用のシャツを2枚買った。つるつるした生地の派手なシャツで、気に入っている。夜道のためのプレイリストも少しずつ増えてきた。このまま夜の散歩をルーティンとして続けるのもいいかもしれない。なにより酒を飲まないことは体に良い。でもきっと件の人間ドックが終わったら、また晩酌の日々に戻るような気もする。そうした通俗さが、人生にはある。これは決して日和見ではないつもりだけど、そうしたありきたりな通俗も、この先は受け入れていかなければいけない。最近はそう考えている。

Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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会社員(システムエンジニア)。