文・写真 | コバヤシトシマサ
先日のこと。友人Oさんの飼い猫・Mが亡くなった。老猫の体調はここ何年もすぐれておらず、病院通いも続いていたので、あぁついに、との思いが一報と共にかすめる。心配していたことが現実となり、なにより気がかりなのはOさんの精神状態のこと。電話口でどんな言葉をかけたらいいか困ってしまった。
これまでOさんと飼い猫の様子を目にするたび、猫を愛することについて思いを巡らせてきた。よく彼の家で食事をしたり飲んだりするのだけど、飼い猫Mはいつでも彼の溺愛の対象だった。実を言うと、自分はあまり猫に愛情を持つタイプではない。猫を飼った経験もなく、そもそも動物への愛着があまりない。そのことを思うにつけ、自分はどこか愛情に欠けているのではないかとの疑念(?)を抱えてもきた。そんな事情もあって、飼い猫に無償の愛を注ぎこむ友人の振る舞いに、自分とまったく異なる気質のようなものを感じとり、長いこと興味関心を寄せてきた。人が猫へ向ける愛情とはいったいなんだろうか。
人と猫のコミュニケーションは言葉を欠いている。だから猫の鳴き声やしぐさから、人はなんらかのメッセージを読み取ろうとする。そうすることで両者の関係は成立している。これは実は高度に文化的な関係なのではないかというのが、自分の理解だ。愛くるしい表情や、猫との身体的な触れ合いが大きな安らぎをもたらすのだとしても、言葉が通じないのなら、原理的には喜びや悲しみを共有することはできない。それにもかかわらず、人は猫を全面的に愛することができる。人を愛するのと同じようにして。このあっけらかんとした事実を前にすると、人間の深淵を覗いたような気分になる。そもそも言葉の通じる人間同士の関係なら、なにかを“共有”していると本当に言えるのか。ある種の文化的なコードによって、そのような幻想がもたらさているだけなのでは?
最近、喪失についてよく考える。年齢ゆえか、身の回りで様々な事情を見聞きするようになった。自分の身にもいろいろなことが起こる。自分の親はまだどちらも健在だけれど、Oさんは両親とも亡くしている。愛猫の喪失は彼にどんな感傷をもたらすのだろう。マンションで猫との2人暮らしをしていたOさんは、その最期を看取った。亡くなって数日後、Oさん宅でいっしょに食事をした。部屋にはMの遺骨を納めた骨壺がある。Oさんは妙に朗らかで、飄々とその最期の様子を語ってみせる。そのうちガクンと気落ちするから気を付けろとの“脅し”を、周りからは受けているそうだが、元気そうなので安心した。しかし話し込むうち、飼い猫の写真や思い出を交えて話すOさんの心境が、だんだんこちらにも伝播してくる。いつもの軽々しい冗談を続けるOさんは、いま弔いの最中にいる。亡き者を心に引き寄せ、もう一度自らそれを送り返す。彼の話す言葉が、そのくり返しにように聞こえてくる。
弔いという行為も、ずいぶん文化的なものだ。亡くなった者に心に寄せる営みを、人類は長く習慣にしてきた。死んだ者を弔うのに、たとえば進化論的な合理性はあったのだろうか。よくわからない。もしかしたらないのかもしれない。あえて“合理的”に言うなら、もはやここにいない者に何らかの手間やコストを支払ったところで、見返りは期待できない。その意味では、弔いにはなんの合理性もないということになる。それでも人は弔い、いなくなった相手を心の中で反芻する。わたしたちの心がそう作用するようにできている。であるなら、人類が弔いを習慣としてきたのにも、一定の理由があるのではないか。残された者の慰めに限らない意義が。
多少の飛躍を覚悟し、人類史的な視点で眺めてみる。いなくなった者を弔うことは、忘却に抗う行為だといえる。それは自分たちの来歴をふまえ、歴史を重んじることにも通じる。だとするなら、それは人間の叡智を維持 / 発展することにも与したのではないか。それは人類の存続に大きな役割を果たしたかもしれない。もしそうだとするなら、それは進化論的にもある種の合理性があったということになる。
いささか大袈裟な話になってしまった……。人は誰しも様々な喪失を経験し、いずれは自らも去っていく。人類の歴史は弔いの歴史ともいえるわけで、ひとつの人生は喪失の連続といえる。死だけに限らない様々な別れが、そこにはある。いなくなってしまった者が影を落とす、“その後”の場所に、いつでもわたしたちはいる。さよならだけが人生さ
との有名な警句は、わずかに誤っていないだろうか。さよならの“その後”だけが人生なのだ。わたしたちには来歴があり、歴史とは立ち去った者たちのこと。彼や彼女が立ち去った“その後”においてのみ、人は生きている。いずれは誰もが去ることになるのなら、この逃れようのない命運が、わたしたちの光源であると願いたい。それはこの先を照らしもすると。いまさら、ながら、さらば、ならば、ここは、さらねば、さらば、なれど、されど、さらば、さらば、なのだ。