文・写真 | コバヤシトシマサ
ギターが好きで、20年ほど1本のアコースティック・ギターを友としている。というのはちょっと嘘で、実は演奏するのは好きだけれども、ギターという楽器自体にはあまりこだわりがない。全くないと言ってもいいかもしれない。ギター愛好家の中には、楽器そのものへの偏愛から、こだわりの年代やメーカーのものを複数本所有する人も多い。聞くところによると、演奏はしないが希少なヴィンテージ物を蒐集するコレクターも存在するという。自分にはその気質がなく、たまたま手に入れた1本のギターを唯一の楽器としてきた。
しかしここ何年か、ギターが欲しいとの思いが強くなってきた。そのギターというのがガット・キターなのだ。クラシック・ギターとも呼ばれる。いわゆるアコースティッ・クギターと姿形はほとんど同じでありながら、両者には決定的な違いがひとつある。アコースティック・ギターの弦は鉄製だが、ガットギターはナイロン製なのだ。それゆえガット・ギターの響きはやわらかく、ふくよかで、重層的だ。ボサノヴァの演奏に用いられるときの、あのポロロンという響きを想像してもらうと伝わりやすいだろうか。
そもそもなぜギターが好きなのか。理由はなんとでも言えるだろうが、それが身体的な行為だというのは大きい。楽器の演奏はなんであれそうか。ともあれギターに関して言うなら、「弦を弾くと音が鳴る」という即物的な原理がまずあり、そこから旋律や和声を作り上げていくことになる。そこに様々な方法やテクニックがあり、しかしそれらも結局は「弦を弾くと音が鳴る」という原則の上にある。至極シンプルでありながら、それこそが至難の元であるこのドグマは実に深淵で、自分はまだその入口付近にいる演奏者ではある。
ギターに関しては、実は重要な要件がもうひとつある。鎮静作用が大きいのだ。自分に関しては、気分が落ち込んだときなどに、たとえば映画や音楽で気分を紛らわすことができない。普段の趣味が気晴らしにならない。ところがギターだとそれができる。決まったやりかたで手を動かす、それを繰り返す、というのが大変に効果的なのだ。これはギターの趣味の範疇に収まる話ではないと見ている。情報消費が蔓延する現代だからこそ、身体的な行為が生活の手綱になるのではないだろうか。無論、料理だって、ジョギングだって、カラオケだって、みんな身体的な行為ではあるけれども。
ガット・ギターの話に戻ろう。自分がその魅力に憑かれたのはボサノヴァによるところが大きい。ご存じだろうか。本国ブラジルではもはやほとんど取り沙汰されることのない、かの音楽のことを。ボサノヴァは1950年代にブラジルで生まれ、1960年代にはアメリカに飛び火し、やがて世界中を魅了した。現在では特に日本で根強い人気があることでも知られている。ボサノヴァで何か1曲というと、やはり「イパネマの娘 Garota de Ipanema」(1962)だろうか。
脱線ついでに余談を続けよう。「イパネマの娘」を書いたのは、かのAntônio Carlos Jobim。彼が天才であるのは、いまさら自分が説明するまもない。というか、できない。それでも彼が書いた名曲群は、真の意味で“芸術”だ。彼が書いた「イパネマの娘」や「三月の水 Águas de Março」(1972)における、あまりに斬新すぎるコード進行と、しかし一度聞いたら誰もが口ずさめる美しいメロディとの、あの見事な抱擁は、音楽理論に明るくない自分にとってはほとんど魔術のように見える。あれは一体なんなのか。ギターを嗜まれる諸兄姉においては、ぜひ「イパネマ~」のコード進行を調べてみてほしい。
ガット・ギターの購入を決意し、旧友に同伴を頼んで、御茶ノ水のギター・ショップ巡りを敢行した。店々で店員の話を聞き、予算と相場とを天秤にかけて思案する。この手の行脚は久しぶりだった。結果を言うと、質 / 状態 / 価格共に文句なしの逸品に出会えた。買い物は成功。手に入れたばかりのギターを抱えて、同行した友人とそのまま祝杯をあげる。実はこの友人というのが中学生だった頃からの付き合いで、最初にギターを始めたのも、このふたりでだった。互いに上京してからはほぼ疎遠になっていたところ、ひょんなきっかけでつい最近再び連絡を取り合うようになり、事の成り行きから、ギター・ショップ巡りに同行してもらったのだ。たしか中学時代に彼が最初のギターを買ったときも、自分が相談に乗ったのではなかったか。49歳になり、その彼と御茶ノ水のギター・ショップを巡り、あれこれ思案して、1本のギターを手に入れる。まるで大きな円環がひと巡りして元の場所に戻ってきたような不思議な気分だった。中年になるとは、こうした感慨を持つようになることでもある。
どうもエモくなりすぎていけない(中年期……)。手に入れたギターは、いま生活の一部となっている。50を前に身辺でもさまざまなことが起こり、人生はままならないとの思いは強くなる。でもこの手でギターの弦を弾いていると、かろうじて我が身をこの地に繋ぎとめられるような心地がする。再び大上段に構えるなら、スマートフォンとインターネットにすべてが集約されるかのような情報消費社会においては、身体的経験はますます重要になる。そのための一助として、自分にはギターがある。人間が情報ではなく、ひとつの身体であるとの当然の事実を、ギターが与えてくれる。
ガット・ギター買ったよー。