Review | デーヴィッド・マークス『STATUS AND CULTURE 文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』 | カルチャーを巡る不都合な真実


文・写真 | コバヤシトシマサ

 多くの人がカルチャーを追い求める。ある人はラッパーに心酔し、ある人はアニメ作品を自らのアイデンティティの一部であるように感じ取る。文化はいつでも人々を魅了してきたし、それはわたしたちのエモーションをアツくする。なぜ人々はカルチャーを必要とするのだろう。流行やトレンドはなぜ起こり、それはわたしたちに何をもたらしているのか。そうした問いからはじめて、文化一般における構造的な仕組みを解き明かしていく。それが本書『STATUS AND CULTURE 文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』(2024, 筑摩書房)の主旨だ。

 流行やトレンドに構造的な仕組みがある?人が熱狂したり、アツくなったりすることに?音楽や映画、あるいはアニメやアイドルに一度でもハマった経験があるなら、カルチャーが人をどれほどアツくするかはご存じだろうと思う。特定のアーティストやその作品が、心を占めてしまうような感覚。そうした個人の熱狂において、それが社会の構造的な仕組みによるものだとの感覚は当人にはない。むしろ逆で、他の誰も知りようがない自分だけの熱い情熱のようなものをひしひしと感じていたりする。そうしたカルチャーへの渇望は、社会のシステムによって喚起されているのだろうか?

 本書によるなら、あらゆるカルチャーは社会における“ステイタス”を巡っての争いだということになる。ここで言う“ステイタス”とは、“ステイタス・シンボル”などの語で用いられる一般的な意味で問題ないけだろうけども、念のため本書による定義を引いておく。

 〈ステイタス〉とは具体的にどういう意味なのだろうか?小難しく言えば”社会における各個人の重要度を示す非公式な指標”になる。すべての社会集団にステイタスの階層があり、有名人や実力者、人望のある人々がその頂点に立つ。大多数は中間層に位置し、不遇だったり不利な状況に置かれていたりする(ありていに言えば貧乏な)人々や蔑まれている人々が底辺をなしている。
――デーヴィッド・マークス『STATUS AND CULTURE 文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』 | p17

 社会にはステイタスに基づく階層がある。そして流行やトレンドはその階層内 / 階層間を伝播するもので、それはステイタスという価値を巡っての争いでもある。著者はそう主張すると共に、そもそもそうした争いがなければ、文化はこれほどには発展しなかったという。なるほど、そうかもしれない。しかしそうだとするなら、それは最初から不公平な争いともいえる。なぜならそれは階層、つまりある種の“階級”によって規定されているのだから。ある人がどの階級に属しているかは、必ずしも当人が決められるものではない。つまり“ステイタス”は公平ではない。実はそうした不公平なギャップこそが文化や流行を生み出したのだとする見識は、本書に通底するテーマだともいえる。

 ロックンロールもヒップホップも、スニーカーの流行もヘアスタイルのトレンドも、総じて文化はそのような背景から誕生した。そうしたプロセスが具体的にどのようなものなのかを、本書はつまびらかにしている。多くの類例によるケース・スタディが列挙され、「キャシェ」「シグナリング」などの概念を使うことで分析がなされる。また数多の哲学者や社会学者(アーレント、ヴェンヤミン、ジラール……)の理論が引用され、そうした分析が妥当であることの根拠も示される。

 著者のこうした手さばきに、どこか冷たい印象を受けるのもたしかだ。カルチャーに心酔した経験のある者からすると、文化的現象を次から次へと社会構造の問題として処理していく著者の態度は、少々冷徹にも見える。本書のそうした構造分析が、いわゆるマーケティング的なそれに近いのも事実だ。無論、著者はあくまで文化やその発展、その多様な進化こそが、社会にとって望ましいとの前提のもと、議論を進めるのだけれども。

Photo ©コバヤシトシマサ

 ところが、である。終盤の第10章「インターネットの時代」以降、それまでの冷静沈着な分析は一転、熱を帯びた議論へとシフトする。ネット以降に起こっている文化の危機に対する警告が展開され、それは最終部に至るまで続く。著者は警告する。インターネット以降、これまでカルチャーを発展させてきた“ステイタス”を巡る争いは、その形式を維持できなくなりつつある。その結果、文化は全般的な停滞に陥っていると。

 バズるコンテンツが永続性を得て文化の一部になることはめったにない。バズるコンテンツは数秒だけわたしたちを愉しませ、季節外れの大雪のようにたちまちのうちに消えてしまう。
 おそらくこの非永続性がバズるコンテンツを二十一世紀を代表する文化形態にしているのだろう。膨大かつ深く特化した情報と物品が眼にも止まらぬ速さで流通し、商品も芸術作品も、そして慣習すらも社会に爪痕を残すことも歴史の進路を変えることもめったにない時代を象徴しているのかもしれない。“バズり文化”は深みも重みもなく、新しい感性もスタイルもほとんど生み出さない。
――デーヴィッド・マークス『STATUS AND CULTURE 文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』 | p360

 この見解には全面的に同意する。インターネット以降、コンテンツは膨大になり、流通は高速になり、いずれも際限がない。その結果、情報やコンテンツの取得コストはゼロになり、ひいては文化のステイタス価値も暴落する。それは文化や情報の民主化ともいえるだろうし、好ましい側面もあるだろう。しかし本書の論考に沿うなら、文化におけるステイタス価値が目減りし、それを巡っての闘争も失われるとするなら、そもそも文化の発展も望めなくなる。

 ではステイタスの消滅とともに、文化は発展を止め、停滞を余儀なくされ、消え去るのだろうか。そうではないと著者は答える。

 わたしたちはステイタスを完全に棄て去るべきだろうか。セシリア・リッジウェイはこう結論づける。「不平等の一形態としてのステイタスが実際に消滅することはない」見事な才能を見せたり素晴らしい偉業を成し遂げた人々に敬意を払いつづけるかぎり、階層はなくならない。
――デーヴィッド・マークス『STATUS AND CULTURE 文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』 | p429

 これは不都合な真実かもしれない。それでもあくまでカルチャーとは、”ステイタス”という不平等な価値を巡っての争いなのだ。

■ 2024年8月1日(木)発売
デーヴィッド・マークス 文・著
『STATUS AND CULTURE 文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』

黒木章人 訳
筑摩書房 | 3,300円 + 税
四六判 | 544頁
ISBN 978-4-480-83652-6

かつてビートルズの〈マッシュルームカット〉と呼ばれた長く、だらしない髪型は各世代から反発を招き、社会を分断するほどの騒動を全世界に巻き起こした。
しかし現在では受け入れられ、むしろクラシカルな髪型となっている。トレンドは一部の過激な行動から始まり、反発を生むが、徐々に許容され、ついには一般化する。
人はなぜ集団で特定の習慣を好み、やがて別の流行に移行するのだろうか。なぜあるものが 「クール」になるのか? スタイルの革新はいかにして生まれるのか?
われわれの文化に起こる絶え間ない変化のメカニズムを、本書は〈ステイタス〉――社会のなかでの各個人の重要度を示す非公式な指標――を希求するプロセスとして説明する。
本書で解き明かしていくステイタスと文化の原則は、捉えがたいものとされてきたセンスや真正性、アイデンティティ、階級、サブカルチャー、アート、ファッション、流行、スタイル、リバイバルといった概念や現象を明確にし、われわれを取り巻く世界を分析する際に極めて役に立つ。
歴史的事例と数々の分野の学問の叡智を統合する文化の普遍理論書。

目次
| 日本の読者に向けた序文
| はじめに 文化とステイタスのタブーにまつわる大いなる謎
| 第1部 ステイタスと個人
第1章 ステイタスの基本原則
第2章 慣習とステイタス価値
第3章 シグナリングとステイタスシンボル
第4章 センス、真正性、そしてアイデンティティ

| 第2部 ステイタスと創造性
第5章 階級と感性
第6章 サブカルチャーとカウンターカルチャー
第7章 芸術

| 第3部 ステイタスと文化の変化
第8章 流行のサイクル
第9章 歴史と連続性

| 第4部 二十一世紀のステイタスと文化
第10章 インターネットの時代
| まとめ ステイタスの平等化と文化の創造性
| 原注
| 書誌情報
| 索引

Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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会社員(システムエンジニア)。