Review | ひうち棚『急がなくてもよいことを』


文・撮影 | しずくだうみ
ひうち棚『急がなくてもよいことを』 | KADOKAWA BEAM COMIX

 エドワード・スタイケンが「人間家族展 The Family of Man」を開催した1955年から66年の月日が経過した。“人間”というひとつのテーマでキュレートされたこの展覧会だったが、“男性”のみを指す単語である“Man”が“人間”と訳された。“Man”だけが“人間”とされる価値観は66年の月日を経て生きる私たちにとっては古く感じられる。そして、当時はひとつのテーマで展覧会がキュレートされることはなかったが、今となってはよくある手法である。

 『急がなくてもよいことを』を読んで、「The Family of Man」のことが頭に浮かんだ。大学の授業でこの展覧会について取り扱ったとき、教授は「人んちの子供が年賀状にプリントされていてもへえとしか思わないし、飼っている猫の肉球が可愛いと言われてもよくわからないけど、その人にとっては大事だから写真を撮って残したいと思うわけで」というようなことを言っていた。この漫画には、そういう“なんてことないが確実にかけがえのない日々”だけが詰まっている。ドキドキハラハラ大冒険でもなければ、お涙頂戴なわけでもない。どうやらかなり事実に即しているらしい内容が淡々と描かれている。知らない町の知らない家族の話なのに、どこか懐かしく感じるのは、“人間”の普遍的な部分を丁寧に取り出しているからだろうか。時代が変わり、当たり前とされる価値観が変わっても、変わらないものはたしかにある。

 家族の記録は誰のために残すのか。自分や配偶者が後で見返すため、子供が大きくなったときのため、親戚や友人に見せるためなどがあると思うが、この漫画の著者はまず他でもない自分のために描いている気がした。私小説でありながら、ひとりよがりでなくきちんとわかりやすいものが私はすごく好きだ。私自身もそういう作品を発表しているからなのか、そういう作品が好きだから作風も寄るのか、鶏・卵のどちらが先かはわからない。

 しかし、ノンフィクションだからいいというわけでもないとも思う。私はシンガー・ソングライターとして曲を書いている。「実体験ですか?」と訊かれるのは同業者にあまりにもよくありすぎることだと思うが、私も多くの同業者と同じように意味がない質問だと思っている。「そうだとしてなんなんだ」と思い、白眼を剥かないように気をつけながら「ご想像にお任せします」なんて言ってにっこりしたりしなかったりする。実体験だからすごいなんてわけもなく、全て想像だからいいというわけでもない。シンプルにいいと思った曲を聴けばいいだけの話だと思うのだが、実体験信仰がやめられない人々はそうもいかないらしい。

 “内と外”、“建前と本音”が混在して境目が他人にはわからないような作品が好きなのだが、実際のところどんなに忠実に事実に基づいてノンフィクションとして事実を伝えようとしたところで、人の手を介在させたら主観が入る。そして、価値観が違う人間の思考を少し覗いて擬似体験できるメディアとして創作物は存在しているのだから、主観は排除されようがないし、仮にできたとしても排除されなくていいのだ。

 文章より視覚的に、写真より抽象的に記録された“家族”が懐かしくないのに懐かしく思える、そんな作品に出会った初夏になった。

しずくだうみ Umi Shizukuda
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しずくだうみ東京のシンガー・ソングライター。

これまでに2枚のアルバムを「なりすコンパクトディスク」(HAYABUSA LANDINGS)、「ミロクレコーズ」よりリリース。自主レーベル「そわそわレコーズ」からは5枚のミニ・アルバムをリリースしている。

鍵盤弾き語りのほか、サポート・メンバーを迎えたバンド・スタイルや、デュオでのライヴ演奏で都内を中心に活動。ライヴ以外にもトラックメイカーによる打ち込み音源など多彩なスタイルで楽曲を発表している。現在はライヴ活動は休止中。

睡眠ポップユニット sommeil sommeil(ソメイユ・ソメーユ)の企画運営でもある。楽曲提供は、劇団癖者、ジエン社、電影と少年CQ、朱宮キキ(VTuber)ほか。