昔の価値観がなくなったときに本当の21世紀が始まる
取材・文・撮影 | SAI (Ms.Machine) | 2021年8月
――本日はラジオ・ディレクターの東海林 靖さんにいろいろお伺いします!……なんだか不思議な感じですね(笑)。
「ね、いつもと立場が逆だからね(笑)」
――インタビューするかたと自分の年齢を重ねながらお話をお訊きすると、いろいろ繋がっておもしろいので、差し支えなければご年齢をお聞かせください。
「えーっと、今年48になりますね」
――今ディレクターを務めていらっしゃる番組は?
「いっぱいあるよ~。東京FMで『SPITZの草野マサムネのロック大陸漫遊記』っていうのをやっていて、InterFMではSAIさんにも出演してもらった『sensor』。と、新しく始まった『ACOUSTIC TOKYO RADIO』っていう番組。甲田まひるちゃんの番組も9月から始まる。METAFIVEの『METAFM』もやっていたんだけど、終わっちゃった。のと、それから、7ORDERっていうボーイズ・グループの番組をやっているのと、スタートアップのゲスト呼んだりする投資家の番組もひとつやっていて。TBSでは芸人のバービーさんの番組、MBSでは風味堂のメンバーの渡(和久)くんの番組をやっています。地上波はそれくらいかな。あとはPodcastでテレビ東京と連動した超有名タレントさんの番組をやったり、YouTubeでアーティストさんたちがセッションするG-SHOCKの番組をやったり、アーティストがファンクラブ限定でやるラジオっぽいのをやったり。UVERworldとか、andropとファンキー加藤くんの番組とか。いっぱい(*)」
* 2021年8月時点
――その番組数を並行して制作するわけじゃないですか。スケジュールとかって……。
「本当に大変です。生放送だったら曜日と時間が決まってるから楽なんだけど、アーティストものなんかは、スケジュールがめちゃくちゃで。そこにゲストのスケジュール、ってなると、もう……毎日スケジュール調整してる。スタジオが取れないとかさ、ゲストがハマらないとかの調整を毎日ヒーヒーやりながら、それで半分くらい取られちゃう感じかな」
――ラジオ業界に進もうと思ったきっかけは?
「俺はすごい田舎で育ったんですよ。山形の最上町っていうところなんだけど、何も情報ないカルチャー過疎地。CD買うにも取り寄せなきゃいけないし。情報が遮断されている中で深夜放送を聴いて、なんだかね、やっぱり“1人じゃない”みたいな経験をするのは大きく残っていて。それから上京して、大学時代にクラブで働いていたんだけど、卒業のときにそこが潰れて、そこから4年くらいほぼ何もしてなかったの。でも、そのときに映像作家のお師匠さんが、照井利幸さん(BLANKEY JET CITY)の作品を作ったりしていて、それを手伝ったり、VJをやったりして。それこそ1999年のFUJI ROCK FESTIVALでVJやってたんだよ(笑)」
――おお!そうなんですね。
「そのお師匠さんから映像のお仕事に誘われたときに、“ラジオのほうが興味ある”って言ったのよ。そうしたらその人が“ラジオのディレクター紹介してやるよ”って言って、今の東京FMで番組やってくれた人を紹介してくれた。それが99年の10月くらい。当時はまだ余裕があったから、俺みたいなよくわかんないやつも面倒見てくれるわけよ。毎日なんとなくファックスを捌いたりして。それで2000年から“じゃあお前ラジオの仕事やってみるか”って、ちゃんと面倒を見てもらうようになった。だから、どこかの会社に入って、とかじゃなくて。なんとなくふらふらっと(笑)」
――一般的には、ラジオのディレクターになる方法って会社に入るとかなんでしょうか?
「そうだろうねぇ。放送局の社員になるか、制作会社に入るか。大体、制作会社に入るっていうやりかただと思うけど、まだ俺が始めた頃は、“飲み屋で見つけたよくわかんないやつ”でもけっこう入れたりする余裕があった。俺とかはそういう感じで、すくすくやらせてもらった感じかな」
――東海林さんのTwitterのプロフィールに貼ってあるウェブサイトを拝見したのですが、フリーランスのラジオディレクターさんってだいたい会社に所属しているんですか?
「俺は一応spice jamっていう会社に籍を置いて、そこの仕事をしながら個人での仕事も持ってくるっていう感じだね。でかい仕事をやるときは、肩書きがあったほうがやり易かったりするから。そういうときは会社の名前使わせてもらったり」
――なるほど。ラジオディレクターのお仕事内容について、具体的にお訊きしたいです。
「例えばアーティストものをやるとなったら、まずそのアーティストに合う企画を考えて、どういう番組にするかっていうのを考えるところから始まるわな。実際番組が始まったら、収録、編集。完パケ、いわゆる完全パッケージ。BGMや曲をくっつけたりして納品する。生放送だったら、素材の準備をして、生放送中に番組運行して、っていう感じだったり。今は構成作家の仕事も兼ねてディレクターが台本書いたりとか。なんならディレクターが営業するところまでやらないと、ちょっとやっていけない感じかな。だから全部やらないとダメだね。構成みたいなかたちでYouTubeに関わったり、イベントのブッキングをやったり、制作をやったり、そういうところまでやってるかな」
――本当に全部ですね……!
「そう全部!ラジオにまつわることをひとりでやれないと食っていけない。どんどん業界が小さくなってきているから。要はお金がない。お金がない中でどうできるかって言ったら、いろいろできる人じゃなきゃダメ。予算を減らした中でどうできるか?っていう対応ができる人に仕事がくる」
――予算があるラジオ全盛期はどんな感じだったのでしょうか?
「まずは60年代から70年代に深夜放送ブームがあったんだよね。その頃は、テレビが夜中になったら終わっちゃうのよ。そういうときに、聴くものがないとか、何をしたらいいかわからない人がラジオを聴く。それで深夜放送っていうカルチャーが生まれてさ。深夜放送を聴いていると、まあ俺もそうだけど、田舎もんが“1人じゃない”って実感できるんだよね。80年代になると、今度はFM局が開局し出すわけですよ。そうすると音楽メディアとしてのラジオのブームが生まれるわけ。今みたいにネットとかSpotifyがないから、音楽の情報をどこで仕入れるかって言ったらラジオから、っていう時代が来て。そこからも一定数ラジオを聴いてくれる人はいて、広告もついていたんだけど、景気が悪くなってきて、今ラジオはどうしているのか?っていうところにきてるかな。ただ、2000年くらいになってからは、震災があったり、コロナがあったりすると、テレビとかネットに疲れるみたいなところもあって、そういうときのラジオっていい塩梅のユルさっていうかさ。だから、今ラジオはラジオで需要があるんだよね」
――私の母も最近「ラジオは疲れなくていい」と言ってましたね。
「そうだよね。あとはラジオって基本、優しいメディアだからさ。人の悪口とかそんなに言わない。ワイドショウを観ている気持ちにはならないというか」
――少し前に『村上信五くんと経済クン』というラジオ番組を聴いていたのですが、海外でのワクチン接種の進行状況を特集していたんです。テレビだとそういう情報が得られなかったりしたので、やっぱりラジオっていいなあと思いました。
「そうだね。テレビとは情報の取りかたも届きかたも違うから。独特の文化ではあるかもしれないね。もちろん、俺はラジオ全体に関わっているわけじゃなくて一部にしか関わってないから、あくまで俺の考えだけどね。違うよって言う人もいるかもしれないけど、俺はそう考えてるよ」
――Ms.Machineが出演させていただいた番組「sensor」は、フェミニズムの観点からの質問が多くて嬉しかったです。話していいんだ!みたいな空気になってきているんだという気持ちになりました。バンドを始めた頃は、そういうことを言っている同世代があまりいなかったように感じます。話しづらい空気をすごく感じていたので。
「ここ2年くらいだよね。自分事になってきたと思う。“アメリカのほうでこんなことが起こってるよね”っていう感覚だったけど、もう今はそこを避けては通れないというか。すごい変革の中にいるから、ワクワクするって言ったら怒る人もいるかもしれないけど、なかなか体験できることではないからさ。うちらの立場としては、しっかり記録していかなきゃだめだし、サポートしていかなきゃいけないというのはあるかな」
――最近日本でのフェミニズムに関して考えることが多くて、メディアを作る人がこれから変わっていくことも、社会が変わっていくことに繋がるのかな、と思っていました。
「さっき言ったことと矛盾しちゃうけど、ここ2年くらいで変わったと言っても、それは本当にごく一部で。やっぱり、今だに昔の価値観で物事をやっている人のほうが多いと思うから。あと5年くらいかかって、俺らくらいの世代がいなくなったとき本当に21世紀が始まるっていうかさ。SAIさんみたいな世代が中心になって物事を動かせる時代になったら本当に変わるのかなって感じがするけどね。今はその狭間みたいなところもあるんだろうな」
――なるほど……。
「うちの業界も俺らくらいまでは、やっぱり男性中心というかさ、オス的な感覚がすごくあるから。やりながら調整してる感じかな。それで出ちゃったミスで吊し上げられるのはなかなかきついな、っていう反面もあるけどね。やっぱり、古い価値観ってなかなかそんなに変えられるものじゃないから。わかっていてもできないことっていっぱいある。そこのチューニングでダメだった部分をどうやって許していくか?っていうかさ」
――最近はいろいろなことがありましたもんね。
「もっとこう、優しい感じに変わっていかないかな?ってすごく思うんだよね。SNSの影響もあるけど、みんな今ストレスが溜まっているし、おっかないからさ。ちょっとミスしたらえらいことになるじゃない?ミスできないのってすごく大変だから、逆にミスは誰でもするんだよっていう大前提で、そこからどうしていくか?みたいな感じで考えていけるようになるといいな、って思うんだよ。それができるのがラジオなのかなっていう気はしていて。やっぱり140文字じゃわからないことはいっぱいあるし、テレビの3分じゃわからないこともいっぱいあるから、もうちょっとゆっくり話したり、いろいろできる場所は重要だと思って」
――『sensor』で初めてお会いしたときクロマニヨンズの新譜をかけていて、「なんとザ・クロマニヨンズ初となる冠番組のディレクターを担当させてもらうことになりましたー!!!!」とツイートしてらっしゃったのが印象的でした。私もTHE BLUE HEARTS大好きなのですが、好きになったきっかけを教えてください。
「小学6年生のときに『人にやさしく』(1987)がラジオでかかって、“わーっ!”ってなって。もう大変ですよ。その衝撃たるや。だって当時はまだそういう音楽がお茶の間になかったわけだから。もちろんアンダーグラウンドのパンクっていうのはあったけど、お茶の間レベルでああいうふうになったっていうのは、やっぱりTHE BLUE HEARTS」
――THE BLUE HEARTSみたいな歌詞の強さやスタイルって現行のバンドでもいないと感じます。
「今はいなくなっちゃった人なんだけど、2000年頃の音楽の重要な位置を占める人が、“日本のロックのフォーマットを変えたバンドはなにかって言ったら、それはザ・ブルーハーツ”という主旨のことを言っていて。やっぱり、当時はその影響力たるやすごいものですよ。田舎の俺とかの人生まで変えてしまうくらいの影響力を持っていたわけだよね」
――なるほど……。それと、別の収録日に、韓国のハードコア・パンク・バンドSLANTのことをお話してくださいましたが、どのような経緯で知ったのでしょうか?
「まあハードコアをかける番組がないから、なかなかこう、聴かなくなるわけよ。仕事でかける音楽も嫌じゃないんだけど、たまにちょっと掘ったりするわけ。俺、一番好きなバンドがTHE COMESっていう、女性ヴォーカルのジャパコアのバンドなんだけど、本当にかっこいいんですよ。SLANTを聴いてTHE COMESを思い出して。“こんなバンドが21世紀にいるのか!”って……久しぶりにハードコアを聴いて盛り上がったなあ」
――DEAD KENNEDYSのJello Biafraのレーベル(Alternative Tentacles)が出したステイトメントをインスタに投稿していらっしゃったの印象的でした。
「DEAD KENNEDYSの1st(『Fresh Fruit For Rotting Vegetables 暗殺』1980)がまあかっこいいんですよ。しかも日本盤は遠藤ミチロウさんがライナーを書いてて。聴き始めてから調べてみると、Jello Biafraはけっこうアクティヴィストで。サンフランシスコの市長選に出たこともあったっけな。政治的なことをやったり。そういう中でああいうステイトメントを出してくれると、オールドスクール・ハードコア・リスナーとして盛り上がるというか。90年代後半からはほとんどリアルタイムで追っていないけど、いまだに聴くかな」
――ちなみに、少年時代はどのような音楽を聴いていたのでしょうか。
「小6でTHE BLUE HEARTSに出会ってから、レベル・ミュージックみたいなものにハマって、中学から聴き出したって感じかな。パンクを聴いたり、スカとかレゲエとかロカビリーを聴いたり。そういう音楽にどんどんのめり込んでいくし、なんか、ジャンルじゃなくて、ちゃんと自分のスタイルって感じに音楽が血肉になってく感じだったな。ただ音楽が好き、っていうのではない感じでハマっていくみたいな。それは音楽だけではなくて、例えば読む本とかもそうなんだけど。ジャック・ケルアックを読んだり、イギリスだったらアラン・シリトーを読んだり。そういう、いかに華麗に反抗するかみたいなところに10代はのめりこんでいったかな。だから、モッズの映画『さらば青春の光』(1973)とかを観たりさ。レゲエだったら『ロッカーズ』(1978)みたいなの観たり。そういうのにいちいち刺激を受けて。当時はファッションもただのファッションじゃないんだよね。例えばMA-1を着るとかDr.Martensを履くのはすごく意味のあることで。“パンク風”とかじゃないんだよね。戦闘服みたいなもんだからさ。だから昔、ジャンルが違う人たちとあまり仲良くなれなかったんだよね」
――なるほど。“ファッションパンク”ではなく。90年代はどのような時代だったんでしょう。
「80年代にいろんなことに憧れて、90年代前半に東京に出てきてさ、自分たちの世代のなにかムーヴメントが動き出した、みたいな時代かもしれない。めちゃめちゃおもしろい時代だった。ヒップホップとかグランジとかがリアルタイムの世代で。そのころアメリカではグランジが流行ってて、イギリスではブリットポップが流行っていて。同時にレアグルーヴっていう、過去の音楽を掘り起こすムーヴメントがあった。レイヴとかもその頃のカルチャーだしね。当時はロック系のクラブとかもいっぱいあったんだけど、しょっちゅう喧嘩があったし。ライヴハウスもすごくおっかなかった。それが良いか悪いかわからないけど、今とはずいぶん雰囲気が違っていたとは思うね」
――今は尖った人があまりいない……ですかね。
「全部消費されちゃった感はあって、何をやっても全部ファッションになっちゃうっていうか、スタイルになりづらい時代だな、って思う。尖りようがないというか」
――新しいものがないように感じますか?
「時代の変化もあるんじゃないかな。そんなに尖る必要がないというか。同時に今はまた“怒ること”が多いから」
――私より少し下のZ世代は、過去のアンダーグラウンドのノイズとかパンクを聴いていた人が親世代で、それに影響受けている子が多いのかな?と感じたりしています。
「それはあるだろうね。だって俺くらいの年齢で子供が20歳とか普通にいるからさ」
――ヒップホップもバンドも今20歳くらいの子が尖っている印象です。
「今、歌うべきことがある時代じゃない。俺らくらいの世代って景気もいいしさ、ポーズとして何かやることはあったけど、自分たちの世代に切実に何かがのしかかってくるっていうのがなかった。パンクをやるにしても、歌うことはポーズだったんだよね。だって別にフリーターでも生きていけるしさ。でも今は本当に切羽詰まってるから、何をやるにしてもリアルになるというか。それが良いか悪いかはわからないけど、今音楽をやるには、リアリティが出る時代なのかな?っていう感じはしてる。大変じゃん、今。嫌なこと、腹が立つことばかりだしさ。もし今自分が10代だったら、そういうことをやっているんじゃないかな。その表現方法に関しては、今いろんな幅があるから、それぞれがそれぞれのかたちでやっているんだと思うんだけど、根っこにあるレベルみたいな……レベルじゃないな、チェンジみたいなマインドはみんな持っていると思う。今の20代の子たちなりの怒りの表現は、どうなっていくかすごく楽しみ」
――さて、インタビューも終盤になってきました。ラジオディレクターのやりがいが知りたいです。
「基本サービス業だと思っているので、誰かに喜んでもらえることがやりがいじゃないですかね。アーティストさんだったら、そのアーティストさんのファンが喜んでくれるとか。そういうのがやっぱり一番嬉しいよね。アーティストとファンの間に立てるわけじゃない。だから、そこの真ん中に立って、ファンの思いを伝えられるって一番幸せなことだと思うから、そうやって誰かに喜んでもらえるのが喜びかな」
――逆に辛いことも教えてください。
「辛いことはいっぱいありますよ~(笑)」
――そうですよね(笑)。
「まず寝られない。フリーでやっているので。あと俺も貧乏性だからさ、おもしろそうな仕事は断れないんですよ。他のやつに渡すなんて悔しいわけ。そうするともう、全然寝られないみたいになっちゃうから、この歳になって眠眠打破飲んでがんばって起きて、夜中の2時3時までやって、朝7時までには起きて、みたいなことをやってるのはいい加減しんどいかな。ワークライフバランスみたいなところはいい加減なんとかならないかな?って。そこかな。辛いの」
――フリーランスはそういうバランスを取るのが難しいですよね。
「でも、次の日仕事に行きたくないっていうのはあまりないな。普通の会社だったら人間関係で悩んで、とかあるじゃん。そういうのがなくて、純粋に仕事に臨めて、みんなで同じ方向を向いて、みたいな現場だからさ。基本楽しいことしかないかな。あと音楽をたくさん聴けて、ライヴも観に行けるから最高だよね」
――ありがとうございます!最後に今後の展望がありましたら教えてください。
「展望ですか。展望は、ゆっくりしたいですね。バランスよく生活したいです。週に1本映画を観て、1冊本を読んで、ライヴを観て、みたいな生活がしたいですね。ストレスなく楽しく暮らしていたい。あと山形で何かやりたいね。地元はいまだにカルチャー不毛の地みたいなところがあるから、そこでやれたらいいかな、みたいなのはある」
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