Interview | AIWABEATZ


まさに降りてきた感じ。今やるしかない

 学生時分に寺山修司の詩歌や文学にも親しんだというAIWABEATZにある日、『青少年のための自殺学入門』は既読かと尋ねたところ、「もちろん。寺山を読むなら真っ先に読むべき一冊だよ」と返答されて「いや、さすがにいくらなんでもそれはないだろう」と思ったけれど、AIWABEATZの性格が如実に表れた返答のような気がして、妙に感心したことを記憶している。
 
 今筆者は、インタビュー本文の記事を脱稿したところ編集から「200~300字くらいの簡単なもので構いませんので、リードもご執筆いただけないでしょうか」と依頼されて非常に困っている。何しろこういった散文を書くのは非常に苦手である。しかし不幸にもAIWABEATZとは長い付き合いであり、思い出話は字義通り腐るほど持ち合わせているので、使えるネタはないかと考えていたところ唐突に先ほどの話を思い出した。

 
 そして、ここまでの話は本文とは“ほとんど”無関係である。そもそも筆者は現行のヒップホップにそれほど造詣が深いわけでもなく、インタビュアーとしてご指名頂いた際にも果たして適任であるものかと自問があった。しかし彼の実存にアクセスし、AIWABEATZが“いかにヒップホップたり得ないのか”を論じるにあたっては、僕は恐らくこの世界で最も適任の者であると言い切ることが可能だ。

 
 本稿は“AIWABEATZがいかにしてヒップホップであるか”そして“(狭義での)ヒップホップのグリッドがいかにAIWABEATZを捉えきれないか”を論じる機能を果たすこととなる。そして今、この序文の文字数が650字を超え、AIWABEATZは鳴り続ける。


取材・文 | 玉野勇希 (UNCIVILIZED GIRLS MEMORY) | 2021年12月

――AIWABEATZは現在ではヒップホップのビートメイカー、プロデューサー、またはDJとしての活動がメインになっていると思うけれど、実際にはかなり横断的に様々なジャンルに精通している印象があるんだよね。音楽に最初に興味を持ったきっかけを記憶していれば教えてください。
 「小学校高学年のとき、演劇の出し物で配役決めをする際に、人前で演技をするのがイヤで、音効係に立候補したんだよね。ノコギリの音とかをレコーダーに録ったり、伴奏の曲目を先生と選んだ記憶があって。カーステレオで父の選ぶ歌謡曲やJ-POPなんかも耳にしていたけど、音楽とか音に興味を持ったのは恐らくこのときだと思う」

――それはかなり創作における原体験的な話だね。環境音をテレコで録音するというのは、現在の岩さん(AIWABEATZ)のフェティシズムにも直結しているようにも感じる。自分でCDを買ったり、音楽を能動的に選択するようになったのはもう少しあと?
 「そうだね、もう少し後かな。スチャダラパーは好きで聴いていた記憶があるけど、自分で最初にCDを買ったのはDef Jamの映画『ザ・ショウ』(1995 | ブライアン・ロビンズ監督)のサントラ。1995年、中学2年生のときだね。たぶんファッション誌で紹介されていて興味を持ったんだと思う。“How High”(Redman + Method Man)がかっこいいと思ったな。でもこのときはまだ、あまりピンときていなくて、そのすぐ後に買ったBEASTIE BOYS『Ill Communication』でガツンとやられたのを覚えてるよ」

――たしかに当時は(今もかもしれないけど)紙媒体のファッション誌の白黒ページで紹介されているような映画や音楽って貴重な情報源だったよね。ビースティの後は順当にUSのヒップホップを聴いていってという感じ?
 「そうそう。とてもよく覚えているのが96年に出たGhostface Killahの1st『Ironman』と、Jeru The Damajaの2nd『Wrath Of The Math』だね。『Ironman』は日本盤のタイトルが“ムキムキマン”で(笑)。情報が少なかったから日本盤の解説を何度も繰り返し読んだよ。それまではラップのかっこよさばかり気になっていたけど、RZAやPremierのようなプロデューサー / ビートメイカーのことを意識し出したのはこの頃だと思う」

――96年というと岩さんはいくつの時?96年はちょうど日本国内では「さんぴんキャンプ」の年だったと思うけど、その時点では国内のヒップホップというよりはUSのほうを中心に聴いていた?
 「中3だから15~6才かな。国内のヒップホップももちろん聴いていて。96年といえばCD版のLAMP EYE『証言』か。自分が通っていたのは中高一貫校で、中学は詰め襟の学ランなんだけど、高校は私服だったんだよ。だからファッションも含めてB-BOY / ヒップホップというのは当時すごく大きなムーヴメントになってきているのがよくわかってさ。高校の先輩たちが“さんぴん”に行っているのを遠目で見ているという感じだった。自分の同級生、中学生でさんぴんに行ってたやつはいなかったな。同世代のYAHIKOくん(1982s, HAKUCHUMU, ex-DOWN NORTH CAMP)は行っていたらしいんだけど、恐らく都心のほうの学校のやつは中学生でも行っていたんじゃないかなあ。自分は国立にある学校に通っていたので。学校の話をもう少しすると、お坊ちゃん学校だったから、中学3年生の時点でDJセットを持っているやつとか、サーフボードを持っているやつなんかがいたんだよね。だから自分でタンテ2台やDJミキサーを持っていなくても、そういうカルチャーに触れているやつが同級生でいるというのは大きかったと思う」

――なるほど~。ではリアルタイムで国内外の所謂黄金期のヒップホップを聴きまくっていたという。ちなみにファッションで言うと、そのときフェイヴァリットだったスタイルとかブランドなど、憶えているものはある?96年というと裏原ブームともちょうど重なる頃だと思うけど。
 「断然POLOがイケてた。今は日本代理店があったり、ファストファッション的なイメージが強かったりするけど、GAPやバナリパ、アバクロ、NAUTICA辺りはPOLOより少し安いけど同じテイストで、セレクトショップで買えるB-BOYファッションのブランドって感じだった。裏原はNOWHEREがあった時代だよね。B-BOYファッションと裏原がわりと近いというか。スチャダラパーがA BATHING APE®をオーヴァーサイズで着ているのもめちゃくちゃイケてたし。ClarksのWallabeeなんかはB-BOYも裏原系の人もどっちも履いてたよね。あと憶えてるのが、COMME des FUCKDOWNで有名なSSURが当時はかなりヒップホップ寄りのブランドで、そこがAPEの猿とチェ・ゲバラをコラージュしたTシャツを出していて、それは好きでよく着てた。APE側の承諾は得てなかったんじゃないかと思うけど、なんか早かったな」

――POLOか!当時のB-BOYって感じだよね。国内でのヒップホップのライヴなんかにも通っていたと思うんだけど、最初に行ったライヴや印象に残るライヴがあれば教えて!
 「初めて行ったライヴはCOMPANY FLOWの初来日で、受験前の高3のとき。LIQUIDROOMだったんだけど、当時は歌舞伎町にあって。サッカー部だったのと、バリバリの受験校だったので、なかなかクラブに行く機会がなくて。でも意を決して受験前に行ったんだよね」

EL-P + AIWABEATZ

――岩さんはCO-FLOWファンのイメージあるから、それはいい話だね。以前、BIOHAZARDとかも雑誌を見て買ったって言ってたけど、中高時代はヒップホップ以外の音楽も同時に触れていた?
 「現代美術家の石井友人が同級生で、彼に『No New York』を教えてもらったのがすごく大きかった。こういう音楽があるのかって。ECDが当時からすごく好きだったんだけど、ECD & illicit tsuboiが後にああいうスタイルで、クラブじゃなくてライヴハウスでライブをやり始めたのも、『No New York』を間近で見ているような興奮があったし。あとはBOREDOMSもよく聴いてた。クラブ・ミュージックとロックが融合していくところも、それこそPRIMAL SCREAMとかを聴いて感じてたし。マイブラを聴いてるやつらも多かったな」

――『No New York』やBOREDOMSとハードコア・ヒップホップを一緒に聴くというのは、現在では珍しくないのかもしれないけど、当時はけっこう異質だったんじゃない?そのバランス感こそ現在のAIWABEATZを形成する上で重要なファクターだと思うけど、あまり気にせず聴いていた?あるいはあえてそういうものを並列に扱うような意識があったの?
 「意識していろんなジャンルの音楽を聴こうというのは特になかったと思うんだけど、刺激的な音楽を聴きたい、知りたい、って思いは常にあったんじゃないかな。それと、感覚的な話になってしまうけど、“B-BOY耳で聴く”とか“ヒップホップ感覚で捉える”っていうのは常にあったかな」

――“B-BOY耳で聴く”、“HIPHOP感覚で捉える”という言説は現在のAIWABEATZのDJにも通底しているよね。僕が岩さんと初めて会ったときは、AIWABEATZとは別名義でアブストラクト / ブレイクビーツ的なトラックを作っている頃で、ど真ん中のヒップホップよりはオルタナティヴな位置取りをしていたと思うから、学生時代からそういう横断的な音楽の聴きかたをしていたというのは納得できる。初めて創作を始めたのはいつ頃なの?ラップやDJではなく、トラックメイクを最初に選んだ理由は?
 「サンプラーを初めて買ったのはKORGのES-1が出た2000年で、結局これを今も使い続けてる。DJ KRUSHに憧れていて、サンプラーを手に入れればカッコいいインスト・ヒップホップが作れると思っていたんだけど、知識もなければネタとなるようなレコードもなかったので、当時早々と挫折して。また、ちょうどその頃“グリッチ”がエレクトロニカの中で手法として流行っていたり、ECDが何かのインタビューで“ヒップホップに影響を受けたからってヒップホップをやる必要はない”といったニュアンスの発言をしているのを自分で勝手に良い風に捉えて、CDのスキップ音をサンプリングしたり、サンプラーのインとアウトを繋いで生まれたノイズをサンプリングしたり、全く何にもならないことをやっていたな。しかも操作法をきちんと理解していなかったから、集中して何か曲を作るというのとは程遠いものだったと思う。ユウキ(筆者)と知り合ったのは2007年くらい?そのときに作っていたアブストラクト / ブレイクビーツもただの気合い一発のものだったから、2000年に買ったサンプラーを2007年になってもまだまともに使えていない状態だったんじゃないかな。音楽をやりたい、何か作りたいっていう思いだけが頭でっかちになっていて。その頃はDJをやるという発想も全くなくて、それよりも何かを1から作りたいという気持ちのほうが強かったんじゃないかな。ラップも自分にはハードルが高くて、やろうとさえ思わなかった。だから、例えば近しい人でビートメイカーやラッパー、DJがいれば、全然違ったのかな?とは今でも思うよね。中高の同級生でDJをやっているやつは当時何人かいたけど。音楽制作に関しては完全にひとりでやってた。ユウキと出会ってからだね、いろいろ広がったのは」

――その後僕がラップに興味持って一緒にやりだして、GEGFでの活動なんかに繋がっていくんだよね。一緒に遊び始めた頃の岩さんはTHE SHAGGSのTシャツ着てたり、髭も生やしてなかったし、今よりアンニュイな雰囲気で(笑)。でも松くん(CRIME OF DOG)とはすでにに共作していたし、人材はその時点でけっこう揃ってたよね。松くんとはどういう流れで共作というかアートワークをやってもらう流れになったの?
 「THE SHAGGSのTシャツにDickiesの紺をよく合わせてたね。懐かしいな。松村とは中高の同級生で、もともと知った仲ではあったけど、卒業してからすごく仲良くなって。常に遊んでいたし、音楽の趣味とかも近かったからね。特別な理由はないって言うと語弊があるけど、ものすごく自然な流れで、一番仲良い奴がイケてる絵を描いたり、デザインもできるからお願いしたって感じかな」

――それが現在進行形で続いているわけだよね。当時はアブストラクト的なトラックをサンプラー1台でライヴ演奏するようなスタイルで、音の構成だったり、要素的な部分では今と繋がるところはあれど、今のようにラップが乗って完成するスタイルというよりは、それのみで完結するような形態をとっていたと思うから、DJ KRUSHの名前が出るのは頷ける。逆に何を契機にしてラップが乗るようなビートに展開していったの?
 「アブストラクト / ブレイクビーツ、インスト・ヒップホップはある時期は夢中になって聴いていたけど、今はあまり聴くこともなくて。やっぱりラップが好きなんだよね。ヒップホップの新譜を熱心に追う状態ではない時期もあったんだけど、GEGFのタツゾーさんに Roc Marcianoの1st『Marcberg』(2010, Fat Beats)が出たときにすぐ教えてもらって、そこからまたドップリになった。個人的な音楽体験として、あの衝撃はCOMPANY FLOWを初めて聴いたとき以来だったんじゃないかと思う。それとやっぱりZENOCIDEの存在があまりにも大きかった。自分にも何かカッコいいことができるかもしれない、ヤバイ音楽が作れるかもしれないと思わせてくれた。憧れのアーティストを見てではなく、近くの友人たちを見てね」

――Roc Marcianoの1st懐かしい。あとはDuck DownがSean Priceを中心に再興し始めた頃で、Torae & Marco PoloとかRuste Juxxとかニューヨークのヒップホップの新譜が僕らの周りでかなり盛り上がってる時期だったよね。岩さんはハードコアのライヴによく行くって感じではなかったけど、知り合ってからはほぼ毎回ZENOCIDEのライヴにいて、違和感なく溶け込んでいった感じだったよね。もともと裸のラリーズとかもフェイヴァリットに挙げていたから、そういう文脈で解釈してくれているのかな?と思ってた。そういえば、ふと思い出したけど、その時期ってまだZENOCIDEがベースレスで活動していた頃で、岩さんがベースで加入するって話もあったんだよね。たしか、そもそも岩さんはベースが弾けないとかで流れたと思うんだけど(笑)。
 「もともとはライヴハウスよりもクラブに遊びに行ってたんだけど、2002~3年にECD & illicit tsuboiのライヴに毎回のように行くようになって、ライヴハウスにも行くようになった。途中間が空くけど、ZENOCIDEのライヴに遊びに行くようになって、またライヴハウスに行くようになった感じ。ZENOCIDEのベースの話は、自分としてはヤル気満々だったんだけど、次にユウキと会ったときには、すでにYwk1くんがやる話になってたよ(笑)」

――そうだったんだっけ。なんでそうなったかは全く記憶にないんだけど、そのときZENOCIDEにベースで加入していたら今日のAIWABEATZはないかもしれないから、結果オーライかもしれない(笑)。DJの話を聞きたいんだけど。岩さんがDJを始めたのって、ラップ・トラックを作り始めてからもさらに少し後だと思うけど、何がきっかけだったんだっけ?
あと、始めたときにはもうスクリューのスタイルでDJしていた気がするんだけど、何かインスパイア元があったの?

 「そうそう、DJを始めたのはもっと後で、最初からスクリューだった。ドムスタ(Sound Studio DOM)でYwk1くんの誕生日会を兼ねたパーティをしたときだと思うんだけど。だから、DJを始めたのは30歳になってから。遅いよね……。スクリューはPaul Wall『The Peoples Champ』(2005)のチョプスク盤が当時CDで出ていて、愛聴してはいたんだけど、それ以上に45回転盤のCYPRESS HILL『Hits From The Bong (T-Ray’s Mix)』を33回転でかけたときの衝撃が凄まじくて。それで一発で理解できた。そのドムスタでのパーティのときにDJをやることになって、どうせなるならこれでやるしかないだろうと、自宅の45回転盤を片っ端から33回転で聴き直して、ハマるものでセットを組んだのが最初だった。その後あまりにスクリューでのトビの研究と実践に没頭するあまり、また幸運にも毎週のようにDJする機会があって、ビートメイクから徐々に離れてしまって。でも途中で、DJ活動からビートメイクにフィードバックできるものがたくさんあることに気付いて、今に至る感じだね」

――今のAIWABEATZのDJはオールジャンルをスクリューでドロドロに溶かして字義通りミックスするようなスタイルだけど、最初はわりとヒップホップだけをプレイしていた?
 「当時、新譜の7″が1,000円ちょいでまだ買えたんだけど、加えてヒップホップの新譜が7″でよくリリースされていたから、始めたばかりの頃はヒップホップが多めだった。でもわりとすぐいろんなジャンルの7″を買うようになって。特に和モノは安かったから、ハードオフとかユニオンで、100円とか300円でいろいろ買って。井上陽水と安全地帯を33回転で聴いたときに、あっ、これはイケるな、と思った。あと、和モノはカヴァーも多いから、ヒップホップの元ネタ繋ぎをする感覚で、カヴァーを何曲もクイックでどんどん繋ぐスタイルを思い付いて。チョップドは最初から取り入れてなかったんだけど、これはチョップドに代わる自分のスタイルになるんじゃないかと思って、和モノに限らずいろんなジャンルのカヴァーや元ネタを集めて繋ぐようになったんだよね。スクリューしてるから、どれがカヴァーでどれがオリジナルなのかわからない感じもおもしろくて」

――そうなんだね。和モノのスクリューは今のAIWABEATZのシグネチャーになっていると思うけど、DJを始める以前のAIWABEATZに和モノ、特に所謂歌謡曲のイメージはあまりなかった。参照した先人がいたりするの?あるいはオリジナルに編み出したスタイルだとすれば、和モノを集め始めたきっかけは?
 「歌謡曲も含めて所謂和モノはそれまで全然集めてなくて、和モノ・ミックスみたいなものもECDの『Private Lesson』シリーズを聴いていたくらい。和モノのスクリューをやってみようと思ったのは、ふたつ理由があって、ひとつはとにかく国産7″の中古が安かったこと。もうひとつは、DJ Screwがスクリューを始めた理由として、回転数を落とすことで歌詞を聴き易くする狙いがあった(諸説あるみたいだけど)という話を聞いて、それならば自分がやるなら日本語の曲がおもしろいんじゃないかと思ったから。それで、さっきも触れたように井上陽水と安全地帯を33回転でかけたときのサイケデリックなトビ、アシッド感がヤバくて、すぐこれはイケると思った。だから和モノのスクリューで参照にした人は特にいないんだよね。同時期にそういうことにチャレンジしていた人は他にもyudayajazzさんや富山のbobuくんがいて、後から知り合うことになるんだけど」

――安かったのが理由のひとつということだけど、所謂和モノの中には今で言うシティポップみたいなものも含まれるの?だとすると、近年盛り上がっている同ジャンルのレコードは中古価格が高騰しているらしいけど、プレ値で買ったりすることも今はある?あと、歌謡曲のピッチを変えたり変調させたりすることで聴きかたを操作するという意味では、ちょうど10年代前半に第1次ブームがあったヴェイパーウェイヴとも近いと思うし、実際AIWABEATZのDJにもそういった要素を感じることができると思うんだけど、意識していたり、インスパイアされたりということはある?
 「シティポップが高騰しているのは本当ここ数年の話で、海外での需要が急激に増えたからだよね。自分はそうなる前に買っていたから、特に高い値段で手に入れたものはないかな。さらに言うと、スクリューのおもしろさって、普通にかけてもイケてる曲の回転数を落としてかけること以上に、普通にかけたらアウトな曲の回転数を落とすことでアリにさせるマジカルなところなので、高騰化とは実はそこまで関係なかったりする。ヴェイパーウェイヴは特に追ってなかったから直接的には影響受けていないんだけど、同時代性という意味ではどこかで同じようなムードは感じていたのかもしれない。ただ、イメージが強いだけで、実際にはヴェイパーウェイヴと直接繋がるような和モノや80s(とアーリー90sかな?)以外にもいろんなジャンルのレコードを買ってプレイしているから、あまり関係ないのかな?って自分では捉えてるよ。回転数を落とすことで原曲の持つ魅力をより引き出すってのがヒューストン・スタイルの本来のスクリューの醍醐味だと思うんだけど、正回転数でかける / 聴くには今の自分の耳では完全にアウトな曲をアリにしてしまう力がスクリューにはあると思っていて、そこに一番のおもしろさを感じてる。というのも、スクリューって誰もができる一番簡単なリミックスでありダブなんだよ。その手法って、遡ればNEU!がやっていたことでもあるんだよね。NEU!の場合はアルバムの曲数が足りなくて、その穴埋めでやっていたわけだけど」

――「普通にかけたらアウトな曲」というのは複数要素があるだろうけど、「普通に聴けばフロアユーズではない」というパラフレーズも可能だと思う。それを変調させることでクラブのフロアで通用するような音楽に変えてしまうというのは、リスナーと音楽自体へ二重にサディスティックな行為と言えるかもしれないね。リミックスやダブという解釈でNEU!やジャーマンロックに接続するのは、岩さんのバック・イン・ルーツ的な意味でも面白いし、それこそBOREDOMS的とも解釈可能だよね。話をビートメイクに戻すと、「DJ活動からビートメイクにフィードバックできるものがたくさんある」って言っていたけど、それはどういう部分?またビートメイクに復帰したきっかけも教えてほしい。
 「すごく大きなきっかけとして、まずダブプレートが気軽に作れるようになったことがあって。自分はWax Alchemyで普段作ってるんだけど、33回転スクリューしてもカッコいい45回転のヴァイナルを自分の曲で作りたくなって。ずっとスクリュー・スタイルでDJをやっていると、自然とこの45回転のレコードは33回転でかけたら更にヤバくなるなとか、この曲スクリューしたら絶対ヤバくなるから45回転で出てないかな?とか考えるようになるんだよね。そんなときにEASTERN.PのEP『Secret Maneuver』を一緒に作ることになって、どうせ作るなら全曲45回転のダブプレートを作って、普通にかけてもカッコいいし、33回転でかけたらよりヤバくなるような曲を作りたいな、って逆算して考えるようになった。それで今まで以上にビートメイクに意欲がわいてきて、さらにダブプレートを作って自分のDJセットに組み込めたら最高じゃん、って考えるようになった。実際スクリューに合うトラックと合わないトラックがあって、例えば日本ですごく人気のあるヨレたビート(自分もかつてはそのスタイルだったんだけど)、あれはギリギリそのBPMでグルーヴが成り立っているから、極端に遅くすると全然ダメで。グルーヴがなくなっちゃう。また音数が少ないミニマルなもの、DJ Premier的な。あれもスクリューするとおもしろみがなくなっちゃうものが多い。もっと音数が多かったり、わかり易いメロディがあったりしたほうがスクリュー映えするんだよね。そこで自然と自分のトラックも、今までは極端にミニマルだったものがある程度音数も増えたし、メロディアスとまでは言わなくてもリフ感が増えた。加えてトラップ以降のUSヒップホップで、所謂ブーンバップと分類されるようなものも、90年代に比べると極端にBPMが遅くなってきたんだよね。自分もBPM90台で組んだループを最終的に70台、場合によっては60台後半になるように落とすような作りかたに変わっていったんだけど、それもまさにスクリューでDJする感覚とバッチリ重なるものがあった。Griselda以降BPMが極端に遅くなったから、その揺り戻しで速くなってきているのが現状だとは思うけど」

――方法論が先にあって、それに現物を追い付かせる。そのために制作物にまで影響するっていうのはすごくおもしろい話だね。ある種、機材の発展がヒップホップの音楽自体を変容させてきた歴史と通ずるというか。『LIKE NO OTHERS』シリーズについては、制作のきっかけがあったの?
 「急にアルバムを作りたくなったんだよ!まさに降りてきた感じ。今やるしかないぞって。しかも1年で3作くらい作りたいと思って。実際自分名義のアルバムは2枚だったんだけど、同じ年に初のミックスCD作品となる音源も作ったから(某デザイナーにアートワークをお願いした関係で1年以上経ってもまだ出てないけど……)、それも合わせると3枚かな」

――客演のラッパーの人選は身近な人を中心に?
 「うん、実際に会って話せる距離感の人にお願いした。というのも、かなり明確に、ビートメイカーという立ち位置以上にプロデューサーっていう役割を見据えて作っていて、すべての曲でテーマ決めから話した。曲によってはフロウとかも細かく話して作っていったんだよね」

――前述の話を踏まえると『LIKE NO OTHER』シリーズもある意味自分が現場でスクリューして使いたいっていうのが前提としてあったの?
 「そうそう。あのアルバムはスクリューの技法を活かして今のUSアンダーグラウンドのBPMや質感に合わせた曲と、最終的にスクリューさせてヤバくなるように作った曲、そしてその両方を兼ね揃えた曲で構成されてる。CHIYORIさん & YAMAANさんとの曲“Pearl Light”なんかは、もう作ってる段階からこれは絶対スクリューしたらヤバイと思っていて、実際すぐに45回転でダブプレートを作ったしね。EASTERN.PのEPの4曲も、45回転でダブプレート作って33回転に落としてDJでかけてるし、スクリューすることで低速化されたラップトラックの上でさらにEASTERN.Pにラップしてもらう(ピッチダウンした声と地声だけどBPMを落とした生の声が重なる)っていうスクリュー・ライヴなんて発想も生まれて、嬉しいことにすごく好評だった。“Pearl Light”は後に柿沼(実)さんに声をかけていただいて、BUSHBASHのレーベルから45回転7″でリリースできたので感無量です。“Pearl Light”が収録されている『LIKE NO OTHER 2』のLPもJET SETからこの度出していただけて、本当に嬉しいよ」

――おお、アナログ化はめでたい!すごく細かくディレクションしたとのことだけど、特に印象に残る曲があれば教えてください!
 「もちろんどれも思い出深いんだけど、強いて言えばMUTAくん(JUMANJI)との“Ghetto Gospel”、東金B¥PASS、EASTERN.Pとの“Gyps(y)”、没くん(Dos Monos)との“The Craft”かな。この3曲は“自分にとってヒップホップとは何か?”というかなり大きな問いかけから始めて、それぞれリリックを書く前に簡単な頭の整理術をやってもらったんだよね。その結果、MUTAくんは“祈りの力でぶっ叩くエンターテイメント”、東金のDF¥くんは“車窓に立った感情に価値を付けること”、没くんは“一人でもいていいように、コミュニケーションを通じてパワーを得るもの”とう答えが問いに対して出てきて。最終的にそれをテーマにリリックを書いてもらった。これは他のラッパーにもやってもらったんだけど、それぞれの回答にみんな個性が出ていて。DF¥くんなんてかなり抽象的だしね。東金B¥PASS、EASTERN.Pとの曲はトラックの構成が決まっていたから別だけど、MUTAくんの“Ghetto Gospel”、没くんとの“The Craft”は小節数を気にせず思うままに、フックなしでバースだけをとにかくダーッと書いてもらって。生々しい感じにしたかったから、どちらもパンチインなしの一発録りで、被せもなしにして。そのぶんアドリブは自由に入れてもらった」

――なるほど。テーマありきでっていうほうが依頼された側も書きやすいし、アルバムとしてもイメージをコントロールしやすいという意味で理にかなっているのかもしれないね。アルバムを聴いた感想として、全編にラッパーがフィーチャーされた作品にも関わらず、恐らくあえてラップ・アルバムとしては物語性というか、過度にドラマチックだったりエモさみたいなものを抑えているように感じたんだよね。特に所謂日本語ラップはラッパーのセルフ・プロデュースだとそういう方向に振れやすいと思うんだけど、そこをあえてドライにするのが非常にビートメイカーのアルバムらしく聴こえて。構成だったり、ミキシングなどの音響的な意味でも意図した部分はある?
 「今のUSアンダーグラウンド、特にGriselda以降はフックのない曲というのが本当に多くて。そのかっこよさには痺れまくってたから反映させた。被せもないしね。その辺はドライな感じに繋がってると思うな。あとは以前と変わらずKORG ES-1でモノラルでトラックを作っているんだけど、モノラルでもワイドなミキシングができるから、左右に広がる音と真ん中で鳴る音を分けるミキシングっていうのをエンジニアのSHOTOくんのところに通うようになって覚えた。これでモノラルでもステレオ的な広がりのある音が作れるようになったかな」

――全体の構成というよりは曲単位の設計からそういったアウトプットになっているということか。良い意味でラップが言葉というよりも楽器として、楽曲の一部として内在されているような印象を受けたんだよね。
 「それは今も昔もUSのヒップホップも日本のヒップホップも分け隔てなく聴くけど、楽曲制作の部分では圧倒的にUSヒップホップに影響を受けているからかもしれないね。英語の聞き取りに強くないので、ラップもまず音として捉えざるを得ないからね」

――2ndでは「Rain (feat. SEXY SAD I, YUJI AMANO)」「Pearl Light (feat. YAMAAN, CHIYORI)」「Militia (LSTNGT remix) (feat. EASTERN.P, LSTNGT)」などヒップホップから少し離れたような楽曲が収録されているのも特徴だと思うけどこれは意図的に?
 「それはかなり意図的だね。1stを作ったときに、ラップ・アルバムとしてはカッコいいけど、自分がDJとしてやっていることや一緒に音楽やっている人たちの幅を見ると、もうちょっと違うアプローチの曲があってもいいのでは?っていう反応が信頼している友人からあったので、たしかになあ、と思って。それで2ndアルバムはそういうかたちにしたんだよね。違う側面が出せて結果満足してます。タータン(SEXY SAD I)、天野(裕氏)さんとの“Rain”と、YAMAANさん、CHIYORIさんとの“Pearl Light”は兄弟のような曲で、ふたつともアンビエントとダンスホールを掛け合わせるつもりで作りました。LSTNGTとはスクリュー繋がり。彼はオリジナル・トラックでライヴするのとは別で、トランスのスクリューセットでDJをやっていて。それこそオール・ヴァイナルでトランスの45回転盤を33回転でプレイするスタイルだね。この辺の曲や、1stと2ndそれぞれに収録した“FRNTLN”と“FRNTLN2”、それからエポン(EASTERN.P)の“One Shot One Kill (Water Flow mix)”はUK ラップやUKベース・ミュージックからの影響も大きくて、現行USアンダーグラウンドとその辺が感覚として同居しているのは、もしかしたらちょっと特殊かもしれないね。もし1stよりも2ndのほうが独特だとしたら、そういう影響がより色濃く出ているからだと思うな」

――2ndはジャンルを跨ぎながらも全体のムードとしては整合感のある見せかたで、NIPPSの大名盤『MIDORINOGOHONYUBI MUSIC / ONE FOOT』にも近いように感じたね。『LIKE NO OTHER』シリーズは継続して制作していくの?
 「NIPPSのあのアルバムはオレもユウキも本当によく聴いたもんね!今回の作品を作るときに念頭に置いてたわけではないんだけど、絶対影響を受けていると思うな。ポエトリー・リーディングの曲も入っているしね。『LIKE NO OTHER』シリーズは当初の予定通り3作は作りたいと思っていて。仮にこういったラッパーが大勢参加する作品を作るとしても、それ以降はアルバム名やコンセプトは変わるかなあ。『LIKE NO OTHER 2』はアナログがリリースされたから、1stもどこかのタイミングでフィジカルにできたらなあと思ってる。子供が生まれたこともあって、10年後、20年後にもフィジカルで作品が残っている状態にしたいという思いが沸々と湧いてきて。以前はそこまで考えていなかったんだけどね」

――デジタル・リリースは特定のプラットフォームに依存している場合、消えるときはかたちなく消えてしまうけど、レコードになればそれこそ未来にもカタチとして残るというのはあるよね。その他にも直近でリリース予定などあれば教えてください!
 「さっきも触れたけど、JET SETから『LIKE NO OTHER 2』のアナログLP版が今月リリースされて、それと前後してBUSHBASHのレーベルから同アルバム収録の“Pearl Light”が“Rain”とのカップリングで7″リリースされました。これは45回転でかけても、33回転でスクリューしてもバッチリな作品になってます。アナログカット用に得能直也さんにリマスタリングしていただきました。東洋化成でカッティングしていただいたんだけど、担当していただいた藤得(成)さんのカッティングもバッチリです。それとYAHIKO & AIWABEATZでのシングルがDogear Recordsから配信で『Y P P feat. 没 aka NGS』『Reincarnation feat. MUTA』『Get Back feat. NORB8』と今年は3曲リリースされて。第4弾として仙人掌くんをフィーチャーした曲をリリース予定です。この配信の4曲も含めて、まとまった作品をフィジカルでリリースする話もあるので、これは昨年の自分名義のアルバム2作に続いて、自分の名前が入ったまとまった作品になるね。会う人会う人から期待の声をたくさんいただいていているので、気合いが入るよ。YAHIKO & AIWABEATZで先日asiaでのMONJUリリース・パーティ / Dogearの15周年パーティに出させてもらったのも印象深いなあ。あとそうそう!このインタビューが出る頃にpreparationsetのスクリュー・ミックスがAVE | CORNER PRINTINGからカセットテープで出るかたちになるのかな。アルバム収録曲を全曲、片面1曲ずつの45回転ラウドカットのダブプレートでスクリュー・ミックスにしました。曲順も自分なりに変えて新たな解釈を加えて。谷内栄樹さんにも協力していただいて、谷内さん宅の素晴らしいオーディオ再生環境で録らせていただきました」

――リリースラッシュじゃないですか。
 「それと、それこそユウキたちLOWTIDE BOYSとSKMの3組で作った『Blanket EP』もリリースされたよね。これを機に、ユウキともまた一緒に作品を作っていければと思ってるよ。Vitoくんのニュー・アルバム(素晴らしかった!)がひとつのヒントになるんじゃないかなあ、とも思っていて。個人的にはENDONやCARREのメンバーにも合流してもらえたら嬉しいな。TOKYODIONYSOSだね。SKMとは自分が参加した別のEP『THE DAYS EP』も今年デジタル・リリースしたけど、それらの作品をまとめて、さらに曲を足したアルバムを来年リリースする予定だね。自分もアルバム全体のプロデューサーとして関わってます。その他にもOH!KISSと作ってる作品や、CHAPAHくんと作っている作品も来年頭にはリリース予定。EASTERN.PがSPRAくんプロデュースで作っているアルバムにも1曲参加します。あとそうそう、赤石(悠)くん(IRONSTONE)とドリル・トラックを今一緒に作っていて、色々な形でリリースされるんじゃないかな。インストやラップ入りはもちろん、ウェイトレス・ドリル、ドリルのデヴィルズ・ミックスとかもやりたい。アンビエント x ドリルにも挑戦したいな。SEKIS & DIKEとも今年『FADE AWAY ep』(自信作!)をリリースしたけど、来年も一緒にジューク・トラックを作っていきたいしね。また、源ちゃん(DJサモハンキンポー)と吉祥寺Bar Cheekyでやってるパーティー“Noche Tropical”をミックス作品をリリースするレーベルとしても機能させたくて、第1弾として沖縄のDJ PINさんの作品をリリースします。源ちゃんに紹介していただいたKeita Sanoくんとも曲作りの話をしていて……。書ききれないな(笑)」

――僕もしばらく音楽から離れていたけど、またいろいろと一緒に活動できて嬉しく思っています。岩さんは家庭もあるだろうし、忙しい中でもけっこう常に制作しつつ現場でDJもしつつという感じだけど、モチベーションが途切れることはない?
 「自分の場合、音楽を聴くことと、DJしたりトラック作ったりすることがかなり密接に関係しているので、音楽そのものへの興味が尽きない限り、制作やDJへのモチベーションもなくならないと思う。まだまだやりたいこともいっぱいあるしね。それとモチベーションに関してもうひとつ言えるのは、自分にとってある種の“制限”がとても良い方向に働いてくれているということ。DJとしては、様々なジャンルに跨るけど、45回転レコードで33回転にピッチダウンしたときにマジックが起きる盤を追い求めているわけだし。ひとつの制限だよね。曲作りに関しても、サンプラーはいまだに最初に買ったものを、その限られた機能の中で使っているわけで。そもそもサンプリングでの曲作りというのがかなり制限された環境での制作だしね。ピッチを±32まで動かせるターンテーブルを使えば、またはCDJを使えば、あらゆる音源がスクリューできるし、サンプラーなんか使わなくても様々な楽器を使えばいろんな表現ができるわけだけど、いざそんな自由を与えられたら、きっと途方に暮れてしまうんじゃないかな、なんて思ったりするよ」

AIWABEATZ Bandcamp | https://aiwabeatz.bandcamp.com/
AIWABEATZ SoundCloud | https://soundcloud.com/tymeslyce

AIWABEATZ■ 2020年9月5日(土)発売
AIWABEATZ
『LIKE NO OTHER』

Bandcamp

[収録曲]
01. Crabs In A Buckets (feat. EASTERN.P)
02. oneshot (feat. YAHIKO)
03. Ghetto Gospel (feat. MUTA)
04. Gyps(y) (feat. 東金B¥PASS, EASTERN.P)
05. Our Night pt.2 (feat. VOLOJZA, RHYDA)
06. onlygoforwardourart (feat. VOLOJZA)
07. FRNTLN (feat. EASTERN.P, MUTA, VOLOJZA)
08. Alchemy (feat. EASTERN.P)
09. LxHxP remix (feat. SEKIS & DIKE, BLACK COTTON SWAB)

AIWABEATZ 'Like No Other 2'■ 2020年11月22日(日)発売
AIWABEATZ
『LIKE NO OTHER 2』

Bandcamp
Vinyl LP JSLP151 2,500円 + 税

[収録曲]
01. Over tha Day (feat. SKM)
02. Inside / Outside (feat. 没, VOLOJZA)
03. Balance (feat. EASTERN.P, 東金B¥PASS)
04. Prayer (feat. MUTA)
05. The Craft (feat. 没)
06. 9596TILL8 (feat. YAHIKO)
07. One Shot One Kill (Water Flow mix) (feat. EASTERN.P)
08. FRNTLN2 (feat. 没, MUTA)
09. Come 2 Pass (feat. SEKIS & DIKE, EASTERN.P, SPRA)
10. Rain (feat. SEXY SAD I, YUJI AMANO)
11. Pearl Light (feat. YAMAAN, CHIYORI)
12. Militia (LSTNGT remix) (feat. EASTERN.P, LSTNGT)
13. Pearl Light (YAMAAN’s screwed dub) (feat. YAMAAN, CHIYORI)

AIWABEATZ 'Pearl Light / Rain (Kishi No Hi)'■ 2021年10月27日(水)発売
AIWABEATZ
『Pearl Light / Rain (Kishi No Hi)』

7″ Vinyl BUSHBASH-012 1,500円 + 税

[Side A]
01. Pearl Light feat. CHIYORI & YAMAAN

[Side B]
01. Rain (Kishi No Hi) feat. SEXY SAD I & 天野裕氏

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