文・撮影 | 小嶋まり
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茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」を、小学生の頃に暗唱させられた。戦争で失われた瑞々しい時間を顧みる、なんとも報われない心情を救い出してくれるのは「だから決めた できれば長生きすることに 年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように ね」という最後の一文だった。しかし、わたしは「ルオー爺さん」を「ルソー爺さん」だと勘違いしたまま覚えていた。それに、アンリ・ルソーの絵は綺麗で、この詩に馴染んでいる気がした。
たまたま先日、美術館でジョルジュ・ルオーの絵を見たとき、この詩をふと思い出しスマホで調べると、長年名前を間違えていたことに気付いた。ルオーの黒くくっきりとした線で縁取られた人物や風景は「凄く美しい」という印象からは程遠く、なんなら、おどろおどろしい。でもそれは美化を超えて彼が捉えた祈りや痛みを迷いのない輪郭を刻みながら描いたものであって、そこに苦しみを超えた美しさへの共感があったのかもしれない。わたしの勘違いは逆に、記憶の奥底に漂っていた詩と再度向き合う機会になった気がする。
年始は出張で大阪へ行き、その足で東京、そして箱根、甲府を回って美術館巡りをした。初日は恋人と画家の山口洋佑と、東京庭園美術館へ青木野枝さんと三嶋りつ惠さんの共同展「そこに光が降りてくる」を朝から観に行ってきた。洋館の一間一間に調和するように展示された作品に感嘆し、建物の扉や照明器具の細工までじっくり吟味し、行ったり来たりしていたらあっという間に3時間も経っていた。
最後に、三島さんのガラス作品が隠れているという庭園へ向かった。作品を見つけようとウロウロしていると、数本並んだ木の前に、作品のキャプションが刺さっているのを見つけた。視力が悪い3人で木々の隅々まで探したけれど、なかなか見つからない。すると、ちょうど日光が当たり、木の幹に小さく、真っ赤なガラスの塊のようなものが鋭く光を反射しているのを見つけた。これだ!
儚い、美しい、粋だ、なんて言いながら3人でそれを眺めていたら、隣に女性がやってきた。私たちから数歩離れたところから、木を眺めている。私たちは割と長い間、そのキラキラと輝く赤い粒を見つめていた。その女性も、私たちの横でずっと佇んでいる。彼女もこの儚い光を見つめているのだろうか、ちゃんと見えているのだろうかと気に掛かり、彼女のほうを見ると、全く違う方向を見ていた。そしてその視線の先には、三島さんらしいガラス細工がぶら下がっていた。なんと。私たちが美しいと愛でていたのは、ただの樹液の塊だった。
女性が去るとすぐ2人に、ねぇうちらが見てるの、ただの樹液の塊だよ、と伝えた。腹が捩れるくらい笑った。帰り際、日が翳ると赤い樹液はくすんだ茶色の塊に姿を変えた。
タモリお墨付きの立ち食い蕎麦をすすりながら、いい勘違いだったねぇとしみじみと語った。あの繊細さは作家の新しい一面を掬い出すようだったけれど、幻想であった。でも、その幻想はあくまでも美しかった。