Column「平らにのびる」


文・撮影 | 小嶋まり

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 こちらに泊まりに来ている恋人とおもちを連れて、朝から滝を見に行ってきた。せせらぎなんて眺めながら昼ごはんを食べられたらいいなと思い、まんまるの大きなおにぎりを4つ作って、カレイの一夜干しを焼いたのをアルミホイルにつつんでリュックに詰め込んだ。

 家から1時間ほど車を走らせ、滝のある山に到着した。低い山だけれども最近は熊が出るらしいので、万が一のため案内場で熊鈴を借りた。歩くたびにチリンチリンと音が鳴り、こんなかわいらしい音で本当に熊を避けることができるのか謎だった。もし熊に遭遇したらどうなるのだろうか。わたしは田舎育ちだけれども、自然の中で生き残れるようなスキルは持っていないし、自然と対話することは到底できない。鈍りきった自分の感覚で山の中を進んでいくのは漠然とした恐ろしさがある。前に、泳ぎが得意な友人と海に行ったことを思い出した。幼い頃から水泳を習い、遠泳もしていた友人は、なんの恐れもなく沖のほうまで身ひとつで泳いでいく。わたしは浮き輪にすっぽりはまってバタ足で彼女の後を追いかける。彼女の経験と鍛錬は彼女自身に対する信頼を生み出しているようだった。水中で生き残れるであろう振る舞いを身につけた彼女はたくましかった。

 川沿いに作られたトレッキング・コースを進み、滝に辿り着いた。そこでゆっくりしようかと思ったけれど、かわるがわるやって来る人たちの邪魔になるので、コースの途中にあった人目につかない開けた場所まで戻る。そこにラグを敷いて清流を眺めた。岩場の間に溜まった砂場の上だったので、横になると細かい乾いた砂が体に沿って柔らかくうねり、気持ちが良い。わたしの側でおもちも寝っ転がっている。35歳になってようやく教習所に通い、卒業を控えた高校生だらけの中で肩身の狭い思いをしながら運転免許を取っておいてよかった。自ら行ける場所が増え、自由気ままに自然の中で過ごすという、幼い頃憧れていたことが簡単にできてしまう。思春期に観た映画『地獄の逃避行』(1973,テレンス・マリック監督)で、主役のシシー・スペイセクがウエストがキュッと絞られたワンピースを着て森の中を裸足で踊るシーンは今でもときめいてしまう。

Photo ©小嶋まり

 寝そべって柄谷行人の『畏怖する人間』(1972,講談社文芸文庫)を読み始めた。シェークスピアが語る(人間の内部という)自然が考察されている箇所で、〝「きれいはきたない、きたないはきれい」と、『マクベス』の魔女はいう。〟とマクベスからの引用がしてあった。そのときちょうど青味がかった綺麗な蝶々が目の前にある岩場あたりを飛んでいた。そこに、獣の糞みたいなどす黒くてドロリとした塊があった。その上に蝶々は止まり羽を休め、養分を吸い始めた。きれいはきたない、きたないはきれい。

 恋人は岩場に座り足を川に浸して本を読み、わたしはまどろみかけていたら、急に後ろのほうからガサっと音がした。熊だ、と思った。おもちが飛び上がって必死に吠えかかる。恋人とわたしは慌てた。すると、こんにちは、川の写真を撮っていいですかと、はつらつとしたおじさんが茂みからひょっこり現れた。いつも穏やかなおもちが飛びかからんばかりに威嚇しているのに驚いた。初めて見る獣らしい姿だった。必死でおもちのリードをわたしのほうにたぐり寄せ、どうぞどうぞと道を開けた。いつも山の風景を撮っているのであろうそのおじさんは、軽そうな運動靴にポロシャツ、動きやすそうなスラックスという身なりだった。カメラと三脚以外は何も持っていない。慣れている。彼も積み重ねてきた経験から自分自身を信頼できる類の人かもしれない。

 ちょっと暑くなってきたのでわたしも川に足を浸した。あたりを見渡すと薄茶色に透き通る羽をつけたトンボや、黒にエメラルドグリーンの横縞の入った大きな蝶々や、いろんな生き物が飛び交っていた。なんていう種類なのか調べようと思い、携帯を出すと、圏外になっている。いつなんどきも頼りきっている科学がここでは通用しない。簡単に享受できる知識を失ったわたしは無力である。でも、無力ながらも目の前の自然を堪能できる穏やかな時間を味わうのは、いつぶりなんだろうとぼんやり考えた。

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正編 | トーチ (リイド社) 「生きる隙間
小嶋まり Mari Kojima
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ライター、翻訳、写真など。
東京から島根へ移住したばかり。