文・撮影 | 梶谷いこ
たまにひとりで飲みに行く店に、花束を買って持って行くことがある。私が「おかあはん」と呼んでいる、店の女将さんへのプレゼントにするためだ。ただ私は、おかあはんがもらって喜ぶのは花ではないことを知っている。
「こんなんが一番うれしいねん」。花束を受け取ると、おかあはんは顔をほころばせてそう言うが、「一番(もらって)うれしい」というのは花にかけてあるリボンや包み紙のことだ。おかあはんはすぐに花を丸裸にして、包み紙のシワを丁寧に伸ばして畳み、軽く結わえたリボンと一緒に定位置にしまって満足そうにする。肝心の花のほうは、私が「おとうはん」と呼んでいる大将の手に渡り、おとうはんが花瓶に生けて見せてくれる。
こんなふうにして集まった包み紙やリボンは、持ち帰りの折詰にかけられる。“おかあはん”も“おとうはん”も、私の実際の両親よりずっと年上のはずなのに、この店の折詰を目の前にすると“実家の感じ”が心に浮かんでくる。私の実家でも、貰い物の包装紙やリボンは捨てずにシワを伸ばして大事にとっておくものだった。ほかに、立派な紙袋も“よそゆきの紙袋入れ”の紙袋に入れてとっておく。それを何かひと様へおすそわけするときに使った。
付き合いなど決して多くはない家で、実際にそうしたものが活躍する機会は滅多になかった。ただ、いざ必要となるととても重宝した。ネットショッピングのない時代、リボンや包み紙や、ひと様に差し上げても問題のない紙袋を、田舎町のどこで調達すればいいのか見当もつかなかったからだ。
私はそれが染み付いていて、実家を出てひとり暮らしをするようになってからも、自然と同じことをするようになった。洋服や化粧品、お菓子やお茶など、買い物をしたときに貰う紙袋がどうしても捨てられない。いつしか溜め込んだ紙袋は、所定の位置からあふれ小さな収納棚を一段丸々占拠するまでになった。
思い立って、溜め込んだ紙袋を整理しようとしたこともあった。しかしもうなくなってしまったあの店やこの店の紙袋が、あとからあとから出てきてその都度手が止まってしまう。1枚取り出すごとに、古いアルバムのページをめくるような懐かしい気持ちがあふれてくる。それで結局、整理もそこそこに甘酸っぱい気分を味わうだけで終了してしまった。そういう懐かしい紙袋はいざとなってもなかなか使えず、新入りの無地のものから旅立って行ったりする。
ひとり暮らしを始めて以来ずっと溜め込んでいるのは、紙袋だけではない。大学進学で実家を出るときに、母が「こういうのはないと意外と困るから」と言って、安全ピンと、よくパンの袋の口が留めてある金色をしたテープ状のはりがねと、輪ゴムをそれぞれ10個ほど詰め合わせにして持たせてくれた。詰め合わせには、マグネットで貼り付けられるタイプのクリップも入っていた。クリップはたしか、もともとコンソメスープのおまけで付いてきたものだったと思う。これを冷蔵庫に貼り付けて輪ゴムかけにしたらいい、という母からの無言の教示だった。
以来、それに従って、スーパーの惣菜のパックにかけられたものでも、荷物を束ねてあったものでも、輪ゴムとくれば何も考えずそこにかけていった。サンリオショップでノベルティにもらったマイメロディの小物入れも、良い使いかたが見つからずとりあえずそこにかけてみた。そうして5年経ち、10年経ち、輪ゴムは母が持たせてくれた最初の10個を芯にしてだんだんと増え、今ではそれが地層のように折り重なって、一見するとパスタの束のような姿になってしまった。
こんなにたくさん集めて生活上ものすごく輪ゴムを使うのかというと、案外ここから輪ゴムを取って使ったことはほとんどないような気がする。使うか使わないかというところまで考えず、とにかく捨てずに集め続けていたらこうなってしまったのだった。現に初期の地層の輪ゴムはもう朽ち果てていて、使える代物ではなさそうだ。それでも私にとってこれは、ごく見慣れた、あたりまえの「輪ゴムかけ」の姿だった。
この輪ゴムかけが“あたりまえじゃない”ことを教えてくれたのは、写真家の平野 愛さんだった。わが家の台所の写真を、拙著『恥ずかしい料理』に載せようということになり、平野さんに撮影に来てもらったときのことだ。
「うわあ。これ、キョーレツやなあ!」。平野さんは台所に立ち入るなり、そう叫びながら冷蔵庫に向けてシャッターを切り始めた。その視線の先にこの輪ゴムかけがあった。まさかそんなところに注目されるとは思いもよらず、私にとってこれは晴天の霹靂だった。と同時に、自分が一体どういうものを一冊の本にしようとしているのか、よそ様のお宅の台所に上がって自分は何をしてきたのか、撮影される身になってみて初めてしみじみとわかったできごとでもあった。この本では、7つのお宅でいつも食べられている料理を、そのお宅の台所で取材させてもらっていた。
結局そのときの写真は、平野さんの強い勧めもあり、観音開きになった表紙の内側にレイアウトすることになった。刷り上がった本で見ると、こんなものをデカデカと印刷してもらって恐れ多いやら恥ずかしいやらで、本のタイトルも相まってまたしみじみした。
後日、脚本家の木皿 泉さんが神戸新聞の連載でこの本のことを取り上げてくださった。その中で木皿さんは、高校生の頃に母親の手弁当の中でご飯に埋められた苺が恥ずかしかったことをエピソードに挙げ、恥ずかしいというのは、意に染まぬことを仕方なくやっている自分が嫌だったのだろう
と書かれていた。“意に染まぬ”というのは“気に入らない”という意味だ。そういえば私のこの輪ゴムかけも、母が焼いた世話が種となり、ただなんとなくでいつの間にか生活のいち風景になっていた。万事そんな調子で、自分のお気に入りだけを集めた“お洒落な暮らし”には程遠いが、意に染まぬものがうっかり入り込んだこの生活も、私は案外気に入っている。
■ 2020年12月21日(月)発売
『恥ずかしい料理』
梶谷いこ 著 | 平野 愛 写真
誠光社 | 1,800円 + 税
A4変型 | 86ページ | ソフトカバー
ISBN 978-4991114922
https://seikosha.stores.jp/items/5fb62232f0b1082519a5e1ca/
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1985年鳥取県米子市生まれ、京都市在住。文字組みへの興味が高じて、会社勤めの傍ら2015年頃より文筆活動を開始。2020年、誠光社より『恥ずかしい料理』(写真: 平野 愛)を刊行。雑誌『群像』(講談社)、『Meets Regional』(京阪神エルマガジン社)等にエッセイを寄稿。誠光社のオフィシャル・サイト「編集室」にて「和田夏十の言葉」を連載中。