Interview | LABCRY | 三沢洋紀


90年代前半、横浜~高円寺の生活とRough Tradeで出会った音楽

 昨年9月にリリースされた未発表ライヴ音源集『BYE BYE CRAZY BLUES』が好評を博し、1月31日(水)には同作のサブスクリプション配信もスタートしているLABCRY(ラブクライ)。オリジナル・アルバム5枚のアナログ再発シリーズが完結し、大阪と東京でそれぞれ開催されたおよそ20年ぶりの再結成ライヴにはかつてのファンのみならず若い音楽ファンも少なからず駆け付けるなど、まさに今、広く聴き直されようというムードの広がりを感じさせる存在だ。

 『BYE BYE CRAZY BLUES』収録トラックの選定に際して「声に張りがあって、とにかく勢いがあったんで、なにか間違ってたり失敗しててもぜんぜん気にせずに選びました。逆にそっちのほうがいいじゃないですか」と語るバンドの中心人物、三沢洋紀。現在は神奈川・横浜の日ノ出町にあるライヴ / イベント・バー「試聴室その3」の店長を務める彼が、LABCRYの活動期に大阪・難波のライヴハウス「BEARS(ベアーズ)」でブッキングほかを担当していたのはよく知られたことだろう(彼のBEARS時代に関しては「花形文化通信」の『ベアーズ・クロニクル』に詳しいので、一読をおすすめしたい)。しかしながら、それまでの来歴など、謎めいた部分も少なからずある。LABCRYの新作制作にも意欲を見せる彼に、LABCRY結成前の黎明期ともいえる時期からの話を訊いた。


取材・文 | フミヤマウチ | 2023年12月

――LABCRYは大阪で結成されたバンドですが、当時の三沢くんはライヴハウス「BEARS」のスタッフでもあったんですよね。
 「そう、裏方始まりなんで。働いていたのは1996年から2005年、ぴったり10年間ですね。初めてBEARSに行ったのは、CAROLINER RAINBOWっていう、サンフランシスコのローファイ・バンドのメンバーがやってる別ユニットが出た日で。真っ暗な会場で、車椅子に乗ってずっとパフォーマンスしている、みたいな妙なやつでした」

――CAROLINER RAINBOWはなぜか関西ばかりに来ていて、東京ではそれほどやっていなかった記憶があります。関西のシーンに与えた影響は大きいと聞きますが。
 「うん、大きいですね。それからいろいろなバンドが出てきたんじゃないかな。その前に、なんで僕がCAROLINER RAINBOWを知っているかっていうと、大阪に行く前は東京にいて、西新宿のRough Trade(レコードショップ | 現在は閉店)でバイトしていたんですよ。そこでCAROLINER RAINBOWとかいろんなローファイものなんかの洗礼を受けるんですね。『CROSSBEAT』誌のレビューとか見せられながら“この佐々木 敦っていうライターの人が取り上げてるやつはすごく売れるからチェックしといてね”とかほかの店員に教わったりして、当時のそういう感じの音楽を覚えていったんです」

――それは初耳。当時、三沢くんとは知らずに接客を受けていた可能性もありますよ。
 「たぶん受けてますね(笑)。当時のRough Tradeには、外国人のデヴィッドさんっていう店長以外にスタッフが3人いたんですよ。僕が“一番若造”みたいな顔をしていて(笑)。あとはNick Caveとか大好きでちょっとゴス系の人がいて、もうひとり、当時出はじめてたメロコアが好きな人がいて」

――全員わかる気がします(笑)。
 「でしょう(笑)?そのメロコアの人は今思えばすごく斉藤くん(斉藤晃彦 | LABCRY dr)にそっくりなんですよ、顔も話しかたも趣味も。その3人でシフト組んで、僕は他のバイトもやってたんで、週1、2ほど店に出てました」

LABCRY
1998, 東京・吉祥寺 STAR PINE'S CAFE | Phewに呼ばれ、4人編成での東京初ライヴ。

――Rough Tradeで働くに至る経緯は?
 「『あなたの聴かない世界』っていう本を書いた、元ディスクユニオンの持田(保)さんっていう人がいるんですよ。僕が東京にいた頃は、高円寺の七つ森っていう喫茶店からほんの50mぐらいのところに住んでたんで、毎日のように通ってたんですけど、そこの店員に持田さんがいて。七つ森にいたときに浅川マキがかかったことがあって、それまで聴いたことなかったからそのときは誰かわからなくて、すごくいいなと思って“誰ですかこれ?”って訊いたら、(井上陽水っぽい口調で)“マキさんですっ”って教えてくれたのが持田さん(笑)。持田さんはLou Reedとかが好きで、それ以来、いろんな音楽を教えてくれたんですよ」

――そのモノマネ、似てるんだろうなあ(笑)。
 「その持田さんから“うちの彼女がRough Tradeでバイトしないか?って誘われたんだけど、ちょっと無理で、代わりの人を探してるんだけど、三沢くんはどう?”って言われたから“じゃあやります”って入ったんですよ」

――Rough Tradeにはどのくらいいたんですか?
 「2年くらいかな。それまでNIRVANAも知らなかったんだけど、すごく流行っていて、最後のアルバムも飛ぶように売れてましたね。Paul Wellerの『Wild Wood』もそこで知って“めちゃいいなあ”と思ったり。そういう時代ですね。ローファイも流行っていて、PAVEMENTとか、CAROLINER RAINBOWとか、GOD IS MY CO-PILOTとか、いろんなバンドがいて。レーベルだと“Drag City”とかすごく覚えてる」

――そういう当時の流行を引いて見ていたんですか?
 「いや、ハマってましたよ。すごく刺激的で、STEREOLABとか好んで聴いてました。STEREOLABは、アナログ2枚組の金色のレコードっていうレアなのが入ってきたことがあって。黄色と青のジャケットで日本盤タイトルが『騒音美的の終焉』っていう難しい漢字のやつ。僕も欲しいなと思ったけど、あっという間にぜんぶ売れちゃって。でも、どうやら針飛びがするらしくて、ガンガン返品されてくるんですよ(笑)。そこで店長のデヴィッドさんから“ヒロはこれ欲しいの?” って聞かれて“はい欲しいです、買いたいです” って何割引きかで売ってもらったんですよ。 “返品されたけどやっぱスタッフでも売るんだ”と思いながら“ありがとうデヴィッドさん!”なんて言ってたんだけど(笑)、次の日デヴィッドさんがすごい泣きそうな顔しながら“ヒロ、ごめん。ヒロからお金取ってしまった。なんで僕はヒロに売ってしまったんだろう”とか言ってお金を返してもらえたっていう。その何年か後にベアーズで“アナログハンマープライス”っていう元JET SETの内門(洋)さんがやっていたイベントに持っていったらすごい金額で売れちゃった(笑)」

LABCRY
1999, 大阪・大正 FREE PEOPLE | スタジオでのリハーサル。

――売ったんだ(笑)。そもそも東京にいたのはいつのことですか?
 「僕が20歳になる年に出てきたんで、90年じゃなかったかな。大分の高校を卒業して10ヶ月くらいは地元でバンドもやりながらバイトしていたんですけど、もっとちゃんとバンドをやりたいと思って東京に行ったんですよね。東京って言っても、大分のバンド友達が横浜国大に入って、大学の真裏のアパートに住んでいたんで、そこに転がり込んだんですよ」

――最初は今と同じ横浜だったんですね。
 「そうなんですよ。その友達は大森くんっていうんですけど、大分でよく一緒に対バンしていた人で。大森くんのアパートには、僕がバイトしてお金貯めて高円寺に引っ越すまで、3ヶ月くらい住まわせてもらったのかな。そこに住みながら、近いから横浜国大にもよく行っていたんですけど、軽音部に通うことになるんですよ。僕、学生でもないのに(笑)。軽音部に紛れ込んでいろいろ遊んだりして、追いコンとかまで出たりして(笑)。そんな中でね、DR. FEELGOODのコピー・バンドをやった記憶があるんですよ」

――「なりすレコード」主宰の平澤直孝さんといい、ちょいちょいパブロック好きとの縁がありますよね。
 「そう、行く先々にパブるやつがいる人生(笑)。それで、94年にはもう大阪にいたんじゃないかな。何かが一段落したんですよね、バンドの解散とかもあったりして。大阪に行って最初は、須原さん(須原敬三 | ギューン・カセット主宰 | 羅針盤 b ほか)のスタジオパズルでバイトしてて、そこで山本さん(山本精一 | 羅針盤, BOREDOMSほか)と出会うんですよ。“今度、法政大学で水道メガネ殺人事件っていうのをやるんだけど、ドラムを叩けないドラマーを探していて、三沢くんやらないか?”っていう感じで誘われたのが、山本さんとの初めての接点。それから“BEARSでも働かないか?”って言われて、BEARSに入るんです」

――“THE JESUS AND MARY CHAINのドラムを叩くBobby Gillespie”みたいな時期が三沢くんにもあったんですね!
 「対バンはたしかKIRIHITOとマリア観音だったかな。そのときの水道メガネ殺人事件はヴォーカルがTHE FOXの進藤(ユカ)さんですよ。豊田(道倫)くんも出てますね。とにかくいろいろな人が出入りするミュージカルなんですよ。MASONNAのマゾ山崎さんが途中で現れて何かカマして去っていったり、バンドが出てきて“オー・シャンゼリゼ”を歌ったり。そんな中でのドラマーだったんです。でも僕ね、ドラムをほめられたんですよ。“三沢くんのドラム、鬼怒無月さんがいいって言ってたよ”って聞いて、ちょっと嬉しかったなあ」

――そこからBEARSに繋がるんですね。
 「そうです。だからBEARSに入ってLABCRYを結成するまでに、やっぱり高円寺の生活とRough Tradeで出会った音楽たちっていうのは、非常に大きい気がするんですね」

LABCRY
1999, 大阪・十三 FANDANGO

――BEARS時代はずっと大阪在住だったんですか?
 「京都にも住んでいたんですよ。BEARSにいたときは大阪時代、京都時代がちょうど5年 / 5年で分けられるんですよ。その頃の京都だとdrillman、ドラムのチャイナがいたMUSIC START AGAINST YOUNG ASSAULTとかJESUS FEVERとか。いろいろなバンドがいましたね。レーベルだと“Tag Rag”とか」

――金野 篤(同席のSUPER FUJI DISCS主宰 | 以下 金) | スーパーボールってその頃?
 「スーパーボール!いましたね。あれいつ頃かな。『G-SCOPE』っていう、ガンジー石原さんが作ってた関西のミニコミがあったんですけど、スーパーボール特集をやっていたのをすごく覚えてる。あのミニコミに憧れてて、自分も載りたかったんだけど、一度も載ったことなかったです」

――金 | 関西スカムブームもそれくらい?
 「いつ頃ですかね?ULTRA FUCKERSって今でもやってますけど、彼らにとってはブームとか関係ないですからね。まあでもそのほうが分かりやすいですもんね、東京やほかの地域の人たちに紹介するときに“スカムブーム”っていうほうが。でもスカムブームって言っても、弓場くん(弓場宗治 | ASKA TEMPLE他のギタリスト)くんとか?」

――金 | 豊田(道倫)さんは ?
 「僕がBEARSに入った頃はもう豊田くんは東京に行っていた気がする。僕の中では豊田くんは“スカム”という感じじゃなくて、“スカム”というと身長2mとか、そういうイメージかな」

――金 | モブ・ノリオってULTRA FUCKERSのメンバーだっけ?
 「そうそう。“芥川賞を狙ってんだ”って言ってて、本当に賞をとったときはやっぱりすげえなって思いました。一夜にしてスターになったのをすごい近くで、BEARSで見てました」

LABCRY
1999, 大阪・十三 FANDANGO

――そんな環境の中でLABCRYを構想していたんですね。
 「いや最初は、田口さん(田口史人 | 「OZ DISC」主宰)が僕のアルバムを出したいって声をかけてくれていたんだけど、結局何も出さずに大阪に移ってしまって。でもしばらくしてまずオムニバスに誘ってくれて、次にアルバムを作りたいって言ってくれたので、バンド組まなきゃなって思ったんだけど、そんなに知り合いもいない。そこで須原さんが“手伝うよ”って言ってくれたんで、やってもらいました」

――それがLABCRYの1stアルバム『A MESSAGE FROM THE FOLKRIDERS』になるんですね。
 「そうです。須原さんとしても僕とやりたいことがあった様子だったから、じゃあ一緒にやってくださいって話して。須原さんのスタジオパズルによく来てたドラムの長谷部くんっていう人にドラムを叩いてもらったり、そういう感じで作ったんです」

――バンド編成で作られた2ndアルバム『COSMOS DEAD』とはまたムードが違いますもんね。
 「SZSっていう、“創造者”という名前で活動していたちょっと変わった天才肌の男とやった3曲(“My Spider's Mambo”“A Message From The Folkrides”“夏のパズル”)にはその流れがあると思うんだけど、それ以外はどこかはっぴいえんどっぽいというか、ちょっと須原さんの色が濃い。須原さんが弾いたギターも鈴木 茂っぽさみたいなのがあるし、須原さんのやりたいことがすごく詰まってるアルバムですね。そこから2ndアルバムを作ろうっていう時に、須原さんは羅針盤もやってるし、そのままじゃ続けていくにはあんまりおもしろくないなと思って」

――それで新しくバンドにしようと思ったんですね。
 「2ndはもう一からやろうって決めて、声をかけたのがあの3人ですよ。清水恒輔さん(ベース)、斉藤くん、村上ゴンゾくん(エフェクト)。僕を含めたこの4人でやろうっていうのは自分の中にあって。まずベースを探したんですよ。須原さんぐらいいけてて、まったく違う流れの人っていないかなって。恒輔さんは当時、PIG FAT PIGSっていう、ジャズとTom Waitsが混ざったような感じの音楽をやっていて、“F.M.N.”からアルバムを出してました。それで恒輔さんに声をかけて。今でもちょっとそうなんだけど、自分にとっては別世界の人って感じだったので、恒輔さんだけは自分の中で別格で、ゲストとして丁寧に迎え入れてる、みたいな感じがあって」

LABCRY
2001, 東京

――でも恒輔さん、めちゃくちゃLABCRY好きですよね。
 「そうなんですよ!今回復活して“こんな好きだったんだ”って伝わってきて。無理にやってもらってたんじゃないかな?っていう気持ちもどこかにあったんだけど、恒輔さんがやりたいって言ってくれたから今回も復活したくらいなものですもん」

――ドラムの斉藤くんはスピードライダーっていう疾走ネオアコなバンドをやってましたよね。
 「僕がBEARSを辞めるときに引き継いだ黒瀬(順弘)くんっていう人がいるんですけど、須原さんのギューン・カセット傘下の“Childish Soup”っていうレーベルを当時やっていて、斉藤くんのスピードライダーはそこからCDを出してました。黒瀬くんはいまは“月見ル”(ライヴハウス『青山月見ル君想フ』)のブッキングなんかをやっていて。久しぶりに東京で会った黒瀬くんは“一旗揚げてやろう”感が強くなってましたね(笑)」

――ゴンゾくんは何かバンドをやってたんですか?
 「バンドはやっていなくて、ひとりでノイズっぽいことをやってて。それよりも、とにかくひどく酔っ払ってたり野次ったりする“客”として有名で。当時はBEARSを出禁になっていたと山本さんから聞いたりしてました」

――3rdアルバム『平凡』からはキーボードの宮地健作くん、ギターのNANAくんらが加わって今のメンバーが揃いますね。宮地くんはピードライダーと同じ「Childish Soup」から出てたNice Fellowや「K.O.G.A」から出てたGrasses64のメンバーでもありましたが、NANAくんは自分にとっては謎の人物でしたよ。
 「NANAくんは、MOLECULESっていう当時アメリカから来日したバンドのヴォーカルだったんです。だから最初は外タレだったんですよ。それから日本に帰ってくることになって、英語もできるからか、JAPAN OVERSEASで働くようになるんですよ。それ以降、NANAくんがBEARSに頻繁に来るようになって、毎晩のようにうちに泊まったりして、よく遊ぶようになったんです」

LABCRY
2001, 東京 | 『I Bring You Down to Underground』発売時の取材にて。

――金 | JAPAN OVERSEASって出すものが他のレーベルとぜんぜん違ってたよね。トウヤマタケオとかさ。
 「違ってましたねえ。そもそもJAPAN OVERSEASは日本のバンドを海外に紹介するっていう目的もある会社だったんですよね。JAPAN OVERSEASの女性社長さんはパワーがすごくて、“オノ・ヨーコってこんな感じかな?”って思ってました。社長さんは山塚EYEさんやYOSHIMIさんとも仲良くて、事務所に行くとよく見かけたりしました。僕は山塚さんと喋ったこと一度もないんですけどね」

――それは意外ですね。BOREDOMSのメンバーはBEARSに来たりしなかったんですか。
 「HIRAさんやATARIさんはたまに来てたけど、YOSHIMIさんと山塚さんはもう“スター”って感じでね、来なかったですね。山塚さんは近所のレンタルビデオ屋でたまに見かけてましたけど(笑)。“何を借りてるんだろう?”ってこっそり見たりしてましたね」

――自分はLABCRYを東京でしか観たことがなかったのですが、地元・大阪ではどういう感じでライヴをやってたんでしょうか。
 「BEARSとかのほかは、クアトロにもよく出てたかな。小林(大介)くんっていう、MO'SOME TONEBENDERもやってたパルコのプロデューサーの人がLABCRYをかわいがってくれていて、ことあるごとにいろいろ誘ってくれてました。あとSMASH WESTもいろいろと誘ってくれて」

――どんなバンドと対バンしてたか教えてもらえますか。
 「あまりよく覚えてないけど、sugar plantとはよく一緒にやりました。サーファーズオブロマンチカも。Convex Levelのイベントにも出ましたね。そこにレイ・ハラカミもいました。あとLABCRYじゃないけど、NANAくんのファンカデリックみたいなバンドで出たときNUMBER GIRLが出てたかな。STOCK, HAUSEN AND WALKMANと2マンやったり。54-71あたりの人たちからよく誘われたこともあって、そのときはTHE ALBUM LEAFとか来日バンドが多かったなあ。Daniel Johnstonともやったし。音響系と呼ばれる人たちともけっこうやったと思います」

LABCRY
2023, 大阪・難波 BEARS | 4月29日「ベアーズ奉納LIVE2023」

――共演した来日バンドやそのファンにはLABCRYはどういう印象だったんですかね。
 「いやあ、どう見えてたんでしょうねえ。それよりも自分は“メンバーと音を出すのに必死”という感じでしたね。周りの人は“羨ましいなあ”とか言ってくれるんですけど、僕はそんなに来日バンドに興味がなかったんですよね。だけど、一緒にやれてすごくよかったというか、後の自分にも影響を与えてると思えるのは、Bonnie Prince Billy。彼らにはやられましたね。そのときは4人組のバンドで来ていて、LABCRYとは神戸でやったんですけど、こんなバンドを作りたい、本当にこうあるべきだなって思いましたね。それくらいかな、対バンした来日バンドでグッときたっていうのは」

――当時の大阪のプロモーターにとってLABCRYは来日バンドの対バンとして最良の選択肢のひとつだったんだろうな、と思えますね。
 「だけど、LABCRYは洋楽志向か?って言われると、僕自身はちょっとピンとこなくて。“どっちかというと邦楽っぽいのに、こんなところに呼ばれてすいません”って気持ちはありましたけどね。これが自分の思い描いた通りのことだったら、次はもっとこういうバンドとやりたいとかって思えるんだけど、もうとにかく現実としていろいろなとこから誘われているけど、LABCRYってどんなバンドなんだろう?って当時はぜんぜんわからなかったです。今となってはこういうことだったのかなってわかるんですけど、当時はもう、本当に必死でしたね~」

三沢洋紀 Twitter | https://twitter.com/misawahiroki/

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LABCRY『BYE BYE CRAZY BLUES』■ 2023年9月6日(水)発売
LABCRY
『BYE BYE CRAZY BLUES』

CD FJSP485 2,550円 + 税
https://diskunion.lnk.to/fjsp485 | 2024年1月31日(水)配信開始

[収録曲]
01. DAYS
02. 虹
03. We Won’t leave you behind
04. GIMMIE GIMMIE GIMMIE
05. 空気の底
06. 夏のパズル
07. Listen
08. 夢をみるなら
09. 5
10. PSYCHEDELIC WATCH TOWER
11. my life, your life, it’s a summer time blues