Review | 青山真治『こおろぎ』


文・撮影 | 那倉太一

 現在、多部未華子主演の『空に住む』が公開中の青山真治監督による2006年公開作品『こおろぎ』。公開時、映画祭には出品したものの、宣伝・配給に漕ぎ着けなかったために数回しか上映の機会に恵まれず、ソフト化も2020年まで成されなかったという代物である。宣伝の枕詞は“幻の”である。現在ではAmazon Prime Videoでの配信視聴も可能となっている。フィルモグラフィとしては、第53回「カンヌ国際映画祭」で“国際批評家連盟賞”を受賞した『EUREKA / ユリイカ』(2001)と『サッド ヴァケイション』(2007)の間に位置するものだ。今年の11月21日のみ、東京・池袋 新文芸坐にて『EUREKA』と合わせてオールナイト上映が決定した。『空に住む』も素晴らしかったが、こちらにも足を運ぶのが賢明だろう。

 当評はストーリーの核心に存分に触れているので、このレビューの存在自体を認めた時点で嗅覚に訴えかけるものがある者は先に鑑賞することをお薦めする。何よりもレビューは匂わせの広告でなく、観賞後に嬉々として共有したくなるものなのだから。また、ここでは俎上に載せないが、撮影と録音、照明共に非常に素晴らしい。銃声の後の蝶々(ただの偶然であろうが)や庭師が掛ける梯子、スタンダードサイズでの食事の素晴らしさ等々は所謂シネフィルブログの弁に譲らせていただく。

 プロデューサーの畠中基博が南フランスを旅行中、どう見ても釣り合わない聾唖の老人と妙齢の女性のカップルに遭遇した経験に企画自体が端を発し、畠中は原案に名を連ねる。脚本は岩松 了。隠れキリシタン由縁の地という設定を加えた西伊豆の安良里で、その老人と相手役の女性が暮らし、老人が死んで蘇るというストーリーである。目も見えず口も利けない老人を山崎 努が、相手役の女性である田坂かおるを鈴木京香が演じる。かおるは、心中では「自分無しでは生きていけない男と初めて巡り合った」と老人を称する。身の回りの世話をしながらも、老人の怪物性に魅了され、またそんな自分を恐ろしいとも感じている。

 この2人のスタンダートサイズで撮られた食事シーンは祭りである。ヘルマン・ニッチェの供犠さながらの豪奢と露悪。ストーリー中においても食事 = 食欲は重要な尺度である。老人の食欲が安良里に越してきて回復していることを、ある種の成果として老人の身内と主治医に報告するシーンがある。フロイト的な意味での口唇欲求が前半部の重要な主題のひとつであることを宣言している。ヨダレを垂らしながらチキンを食らう聾唖老人はかおるの指に喰らいつく。かおるは愛撫のように指を舐める聾唖老人の前で、もう一方の自らの指を舐め恍惚の表情を浮かべる。

 ある日、町の共済組合が作ったという無国籍なバーといった体裁のコミュニティ・センターに老人と彼女が連れ立ってでかけていく。街の男タイチ(安藤政信)は老人が聾唖者であるとわかると、かおるの手を取って誘惑する。振り切るように彼女はトイレに行くが、戻ると老人はかおるが近くにいないので狼狽し怯えている。別荘に戻ると、嫉妬を覚えたかのように食事中に老人はフニャフニャのペニスのようなちくわを咀嚼することを拒否する。それに激昂したかおるが「私のこと嫌な女だと思っているんでしょう」と言うと嬉しそうに笑い、咀嚼をはじめる。

 老人とかおるの関係はいかなるものだろうか。DVDのケースには“飼育”とあるが果たしてそうだろうか。まさにこれがこの映画の主題であり、鈴木京香扮する田坂かおるという女性像の経験を通して人間の主体形成の旅をファンタジーとして我々に提示するものである。我々は、生きている以上、自他共に理解できないパトスの領域に苦しみ、そういった他者(まるでそれはわがままな母親だ)に支配される経験を必ず持つ。しかし、支配・被支配の関係は必ず侵食しあっている。主人と奴隷の弁証法である。奴隷は主人がいなければ存在しないが、その逆もまた然り、である。老人とかおるの関係も侵食しあっているのだ。食事のシーンのしゃぶり合いをそれを直接的に現す。この『こおろぎ』の食事シーンは、とても近くにいる者同士は同じものだ、正確に言えばどちらも同じものの部分であるということを見せつける。それを理解したならば最後、我々は怯えて暮らすしかないのだ。去勢は常に身近で、鮮やかな進化などない。しかし醜い屹立を内部に宿ったまま生きていかなくてはならない。当然のようにそんな我々に帰る場所はない。そういうものなのだ。

 老人の体調は悪化し、徘徊も弧を大きく描くかのようになる。夜の海に老人は入り、顔に海水をかけている。海に立つ老人の黒い空虚な目は月を見つめ白く光る。そこでまた老人は笑うのだ。ここはニーチェの言う“大いなる正午”の現場である。奇跡のように闇が光り(それは神を視ることだ)、逆転の予感が我々を刺す。

 徘徊する老人の行方を探すかおるは、タイチに老人がどこにいるか教えてやると言われ、伊藤 歩演じるタイチのパートナーと思しきレイコと共に、この地にキリスト教をもたらした宣教師を祀る洞窟に連れて行かれる。その入口でレイコ(実際はかおるの幻覚であり、彼女の抑圧された若く挑発的な面をキャラクター化させたものである)に「タイチくんとSEXしたいの?」と尋ねられ、必死で否定してしまう(「夢の中に否定はない」のであるからこれは肯定である)。

 奥に祀られているものに触り、それを口にしようとするかおるに対しレイコが「言葉にするな」と言い、“見猿聞か猿言わ猿”のジェスチャーをする。レイコという、かおるの無意識の一部をキャラ化させた者がそれを言うのは当然である。我々は対象に知覚と主観で最初に触れ、それを名指す。しかし、言語でそれを表すことは、対象それそのものを殺していることに他ならない。これをヘーゲル / ラカンにおいては“物の殺害”と呼んでいる。かくして私たちも私たち自身から切り離される。言語という非個人的なメカニズムに閉じ込められているのである。私たちは常に、私たちが伝えたようとしたことの全てとは別のことを言語によって伝える。「私は話しているのではない。言語によって話されている」(ジジェク)のである。このシーンで、言語が信仰と存在のための殺しの道具であることが告げられる。注意すべきこととして、この映画全編を通して聾唖老人が名指しされることもない。

 洞窟から出たかおるは森 = 自然に侵襲されているかのような崩壊感覚を味わう。タイチは彼女に殺したキジを渡し、老人は家にいると告げる。この崩壊感覚描写は伝統的で美しい。荒れ狂う自然は言語獲得以前の私である。それを侵襲的に感じ、コントロールできないというのは、正にこのシーンはフレッシュな象徴的去勢の場面を映画的表現で見せつけているのだ。その翌日、老人は死ぬ。

 かおるはもはや罪責感を抱いているだろう。冒頭で老人とかおるの支配・被支配関係は相互に侵食しあっているいわば主人と奴隷の弁証法を体現する関係性であると言ったが、かおるにとっての老人もまた“わがままな母親”だったのである。そして相手の要求を理解できなかったが故に殺してしまったと感じているのだ。メラニー・クライン的抑うつポジションへの移行である。

 老人の死後、パーティが催される。レイコはかおるにそれを「あなたが自由になったお祝いじゃないの」と言うが、かおるの表情には最早自分が自由になることなどないという烙印が押されているかのようだ。そう、これは人間が人間になる過程のファンタジーなので、全てが仕組まれているのだ。語る存在である我々は漏れなくこのシステムから自由ではない。パーティの後、海からクレーンで宣教師の遺骸が吊り上げられる。クレーン = 垂直志向はそのまま信仰を現す。海面に老人の杖を見つけたかおるは気を失うと同時にレイコがトラックに轢かれるのを目にする。そして1年後、死んだはずの老人が戻ってくる。

 戻ってきた老人に「ごめんなさい」とかおるは言う。このシーンはタルコフスキーの『ソラリス』のラストシーン、息子が父親に跪くシーンと似ている。年長の男に告解する身振りは例外なくある集団への参入を意味する。大変残念なことだが、これが人間なのだよ、といった具合に。想像的な機能としての若く挑戦的な女性性レイコが死に、かおるは被支配の身振りをまとうこととなる。

 老人が死んでからの展開は、筋も絵も正に映画を取り纏めるという意味での監督の妙技と剛腕が発揮されている。大抵の者が“映画とは動く絵”であるという真実を理解し、閉口せざるを得ない強度を持っている。資本とアイデアとインカーネーションが三権分立している映画的状況の映画とは(ゴダールが印象的に扱うように)、これは誰のものなのかという力学が非常に美しく映る。作者の死といった具合の、作品は受け手 = 消費者のものであるという作品論とは無縁の言説としてである。一例を挙げれば、聾唖老人と女性のカップルは冒頭で述べた通り、プロデューサーの目撃談に端緒を発し、岩松 了が脚本を書いている。また、聾唖老人のキャラ造形は山崎 努のアイデアに依るところが多くあるらしい。彼はまた現場でかおる役――鈴木京香の指を舐めたいと申し出たと言われており、またその山崎に鈴木は俳優としての殴り合いを受けて立つといった具合に了承したという。また、その合戦に巻き込まれたくなかったとも青山は語っている。そういった諸々の力を監督が物語として治めなくてはならないとき、画面には人間になるための条件・構造があらわになり、そこに神話が回帰するのだ。この映画を語るとき、青山はその諸々の力の前にありがた迷惑の素振りを見せたかのように回想しているが、采配はまるで神の手捌きである。私的には非常に映画らしい映画だと思う。

青山真治 不朽の長編『ユリイカ』 + 幻の『こおろぎ』
https://www.shin-bungeiza.com/schedule#n1121

2020年11月21日(土)
東京 池袋 新文芸坐
23:00-5:00 予定 | オールナイト

一般 2,800円 / 友の会・シニア 2,600円 | 全席指定
前売発売 2020年11月14日(土)10:00- | オンライン / 窓口

上映
| 『こおろぎ』
2006 | 102分 | BD
脚本 岩松 了 | 出演 鈴木京香, 山崎 努

| 『EUREKA / ユリイカ』
2000 | 219分 | 35mm
出演 役所広司, 宮崎あおい

那倉太一 aka L💔💲💲那倉太一 Taich Nagura

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ENDONのヴォーカリスト。ヴォーカライゼーションの行き過ぎた抽象化と、情動の発露によって自らを記号化し、音楽における叫び声の可能性にアプローチを続けている。