文・写真 | コバヤシトシマサ
これはいったいなんなのか。先日、筒井康隆の『虚人たち』(1981, 中央公論社)を読み始めたところ、冒頭からいきなり前後不覚となった。珍妙なこの小説は、筒井がそれまでの作風から大きく逸脱していく萌芽となった作品だそうで、最初の数行を読めばそれはすぐに了解できる。現実味を欠いた観念的な世界が、ひとりの男を主人公にして淡々と綴られていく。文庫版の裏表紙にある案内文から抜き書きすると、本作では自らが小説の登場人物であることを意識しつつ、主人公は必死の捜索に出る
。これはいわゆるメタ・フィクションものであり、つまり物語についての物語だ。いま書かれつつあるのが作者による創作であり、つまり虚構に過ぎないのを、主人公自身が十分に承知している。その上で物語は進行する。いや、進行するとはいっても、通常の意味での物語はこの小説にはないわけだけれども。
目下虚構中
――筒井康隆『虚人たち』2025, 中央公論新社 p12
山水画の掛軸は汚れている。それがどんな山水画かよくわからないのは汚れているせいかもしれないがそもそも汚れていなくてさえよくわからない山水画だったのかもしれないし山水画という字が書かれているだけという可能性さえある。
――筒井康隆『虚人たち』2025, 中央公論新社 p8
この小説が虚構であることは、冒頭部分ではっきり宣言されている。もちろんどんな小説も虚構であり、つまりフィクションなわけだけれども、本作はその虚構性を極限まで煎じ詰めたものと言っていい。完全に虚構化した世界では、部屋に掛かった山水画は「山水画」との文字を書きつけた書き割りであっても構わない。その上主人公自身がその虚構性に自覚的でもある。この作品について何かを述べようとするなら避けては通れないのがこのメタ・フィクション性だけれど、一通り読んだあとの実感として、作者の欲望は別にあるのではないかとも感じた。
この作品では作者の構想やアイディアが、小説的な手続きを踏まえることなく書かれている。たとえば本書の文中には読点(、)がない。読点は文体を構成するための要といえるけれども、この本では文体を構成するというプロセスがスキップされているのだ。言葉を選ばずに言うと、本書には構想やアイディアが次から次へとノートにメモするように書かれている。世の小説家がどうやって作品を書いているのかは一般論では語れないとしても、普通に考えるなら、頭の中にある構想やアイディアを小説的な枠組みに即して構成していくのが通常ではないだろうか。筒井はそのような手続きを経ないまま、思いつく限りにアイディアを書き飛ばしている。少なくとも読者にはそのように読める。そしてその起伏のない平面的な書きぶりが、虚構世界の虚構性を強調することにもなっている。もう少し例を挙げてみる。例えばストーリーに沿って時間的な経過を表すとか、場面の様子を伝えるために風景を描写するとか、そうした小説的な手続きも本作では取り下げられている。本書にもストーリーはあるし、風景描写もあるのだけれども、それらは総じて即物的な記述に徹していて、作品としての肉付けには与しない。その上で小説における時間的な経過や、風景の描写については、作中人物によっても言及される。
むしろ無意味なのは本人がすべてを眺めわたしたというわけでもない風景の細密描写による現像焼付引伸しでありその為に時間までがおそるべき長さに引きのばされてしまうことであろうと彼には思える。
――筒井康隆『虚人たち』2025, 中央公論新社 p155
虚構性を極限まで推し進めた結果、本作はかなり観念的なものになっている。その観念の箱に、筒井は思うがままにイメージを投入する。文体やら構成やらの小説的な要件を度外視したままで。そうした都合上、この小説はやや難解だし、読者を選ぶタイプの作品とも言える。まあ、文学作品はわりとそういうものも多いし、観念的にしか表せない事柄もあるわけだけども。例えばこのような記述はどうだろう。
むろん彼の時計の盤面に時間はない。そこには数字もある。二本の針もある。しかしその二本の針はいずれを指してもいない。
――筒井康隆『虚人たち』2025, 中央公論新社 p198
わお。これは本作のエッセンスと言っていいかもしれない。現実と虚構とは対立するものではないし、現実もまた部分的には虚構であり得る。
後半部に展開される一連の下ネタについては評価の分かれるところだろうか。あまりにくだらない下ネタ(失礼!)が連続するが、情感を欠いた虚構世界においては、それらはグロテスクにもユーモアにも着地しない。そもそもこの小説には現実的な背景がないし、あったとしても舞台装置の書き割り程度のものだから、そのような場所ではグロテスクもユーモアもその意味が揮発してしまうようだ。では死や暴力はどうだろう。最終部、主人公による妻と娘の捜索は一応の結末に至る。死と暴力とを伴った陰惨といっていいその結末も、虚構世界の空虚な出来事としてそこに置かれている。本作はその空虚さから一歩も外に出ないまま幕を閉じると言っていい。しかし虚構世界に唐突に現れる死と暴力に、通常のフィクションにも増して気味の悪さがあるのも事実で、この奇妙なリアリティを残したまま小説は終わっている。これはいったいなんなのか。読み終えたあと、しばらく考えてしまった。嘘八百の虚構世界にいたつもりが、唐突に生々しいリアリティが闖入してきたような感触。これは“文学”なのだろうか。この気味の悪い手触りを記憶したまま、読者は虚構から現実へと戻ることになる。はて、これはいったいなんなのだろうか。

