文・写真 | コバヤシトシマサ
このひと月ほど、どこへ行くにもこの本を持って出た。出先で用事を済ませた後の、カフェに入っての読書が最も捗るので(たいていドトールかベローチェですが……)、今月はこの重い本をほうぼう持ち歩いた。そこで一句。「〈帝国〉を 抱えてしのぐ 寒波かな」。
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートによる共著 『〈帝国〉――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(2003, 以文社)は、その外装だけでなく中身もぶ厚い。本書の長大な議論は、ひとつの前提から始まっている。要約するとこうだ。20世紀のある時期まで支配的だった“帝国主義”は、今ではその意義を失った。資本が世界をグローバルに覆うにつれ、かつての“帝国主義”的な主権のありかた、つまり国家が国や地域を植民地的に支配するような主権のありかたは、もはやその効力がなくなったと。
今日では、 [中略] 巨大多国籍企業が国民国家の支配権や権威を事実上凌駕するまでになっている。
――アントニオ・ネグリ, マイケル・ハート『〈帝国〉』2003, 以文社 p393
では人々は国家による支配を逃れ、資本主義的な自由だけを得たのかというと、そうではない。国民国家が弱体化し、一方で資本の論理によって覆いつくされた世界は、これまでとはまったく異なる政治主体によって統治されている。本書はその統治権力を〈帝国〉と名付ける。つまり帝国主義が終わり、〈帝国〉が始まったのだ。
著者のひとりであるアントニオ・ネグリ(1933~2023)は哲学者であり、活動家でもあった。その言論や政治活動を巡り、政治犯として有罪判決を受けたこともある(この判決の是非については様々な見解があるようだけれども、ここでは省略)。いわば左派を代表する巨人と言っていいネグリ、その主著といえる本書は、しかしその論旨が極めて繊細だ。アジテーションの類はほとんどない。これは意外だった。国家を打倒するだの、資本を粉砕するだの、左派にありがちな合言葉は本書には全くない。むしろ世界市場の十全な実現は、帝国主義の終焉
(p421)であり、ヨーロッパの旧い列強に抗して新しい〈帝国〉が形成されてきたという事実は、たんに朗報に過ぎない
(p468)とすら述べている。左派であるネグリは、グローバルな資本主義について、一定の意義を認めてさえいる。
とはいえ〈帝国〉万歳とはならない。国家でも資本でもない、それらが折衷したかのような新たな統治権力は、これまで以上にしたたかに人々を支配している。かつての帝国主義による“規律”から、〈帝国〉による“管理”へと、その統治形式は推移したというのが本書の見立て。この“規律社会から管理社会へ”との図式はもともとよく知られたもので、規則によって直接的に制限する統治から、よりよく生きる自律性を推奨する統治への、そのパラダイムシフトを指す。ああしろ、こうしろと命令する“規律”から、ああしてもいい、こうしてもいい、ただしよりよく生きよとの“管理”へ。一見したところ社会は寛容になったようで、実はより緻密な管理を人々は被っている。フランスの哲学者ミシェル・フーコーはそれを生権力 = 生きさせる権力と名付けた。実際、“より良く生きよう”とのメッセージは巷に溢れている。
ところで国家と資本の関係というと、合衆国のドナルド・トランプをつい連想してしまう。先日行われた彼の大統領就任式での、その参加者であるジェフ・ベゾス(Amazon)、マーク・ザッカーバーグ(Meta)、イーロン・マスク(Tesla)といったビリオネアたちが居並んだ写真は、けっこうな話題となった。国家と資本。あの印象的な光景こそが〈帝国〉なのだろうか。一方でイスラエルとガザ、あるいはロシアとウクライナの間で起きている酷い事態について、“まるで19世紀に戻ったようだ”と評されることも多い。領土や信仰を巡っての前時代的な争いが起こっていると。あれらは“帝国主義”的な争いなのか、あるいは〈帝国〉的争いなのか。いまネグリとハートの『〈帝国〉』を読むなら、この問いは避けがたい。原書の刊行は2000年なので、本書にその明確な回答はない。それでも〈帝国〉なるグローバルな政体構成における、その「ピラミッドの狭い頂上には、 [中略] アメリカ合衆国が鎮座している」(p396)との明確な予言がなされているのも事実。
議論は権力の分析だけにおさまらない。それへの抵抗手段についても展開されている。本書によるなら〈帝国〉にはその外部はなく、つまりあらゆる場所がすでに〈帝国〉によって掌握されているので、わたしたちはそれに抗するための陣地を持つことができない。グローバルな資本に抵抗するため、ローカルなコミュニティを組織すべきとの意見もあるが、ネグリとハートはそれは不可能だと断言する。グローバリズムに対して、ローカリズムでは太刀打ちできないと。
今日「ローカルな」左翼がとるさまざまな戦略形態の中心部で作動している三段論法とは、ひたすら受け身的なものであるように見受けられる。
[中略]
そのようなローカルなものに固執する立場を擁護しようとする何人かの者たちの精神を高く評価し、それに敬意を表するにはやぶさかではないが、いまやその立場は間違ったものであり、有害なものでもあると主張したい。
――アントニオ・ネグリ, マイケル・ハート『〈帝国〉』2003, 以文社 p67
ではどうしたらよいのか。キーワードは“マルチチュード”だ。群衆、多数性、多性などの訳語があてられる言葉。国民国家が弱体化した現在、〈帝国〉が統治の対象とするのはもはや一国の国民ではなく、マルチチュードだと著者らは言う。それは広く〈帝国〉を構成する、その構成員の総称でもある。このマルチチュード概念において、本書は若干アクロバティックな議論を展開する。
〈帝国〉の活動が実効性をもつにしても、それは、みずからの力のおかげではない。〈帝国〉の権力に対するマルチチュードの抵抗からの反発力が、〈帝国〉の推進力になる
――アントニオ・ネグリ, マイケル・ハート『〈帝国〉』2003, 以文社 p451
つまり〈帝国〉はマルチチュードを支配するが、しかしその〈帝国〉は、マルチチュードによって推進されている。ネグリとハートはこの見立てからはじめて、〈帝国〉とはマルチチュードの力から、みずからの活力を引き出す寄生するもの
(p452)であり、〈帝国〉の権力の作動が不可避的に〈帝国〉の衰退をもたらす
(p452)としている。つまり〈帝国〉の力の源泉がマルチチュードにある以上、いずれ〈帝国〉はマルチチュードによって骨抜きにされるのだと。うーん……。どうだろう。少々アクロバティックに過ぎるというか、正直無理がある気もする。多少立ち入った指摘をするなら、ここでの〈帝国〉とマルチチュードという二項対立は、本書がたびたび批判するところの旧式の弁証法 = 二分法的分割にも読めてしまう……。
ネグリとハートのマルチチュード概念が、曖昧で具体性に欠けるというのはたびたび指摘されるところ。それに加えて、どうにもそれが言葉の上でのレトリックに終始している感もある。結局のところ彼らの主張は、“来たるべき民衆が、やがて国家も資本も転覆させるだろう”なんて具合の左派のアジテーションを、体よく言い換えただけのようにも聞こえる。実は著者にもその自覚があるようで、弁明のような言葉さえ残している。
だがしかし、マルチチュードにとってのこの課題は、なるほど概念レヴェルでは明確なものの、いまだ抽象的なものに留まっている。
―アントニオ・ネグリ, マイケル・ハート『〈帝国〉』2003, 以文社 p496
なんだか粗探しのようになってしまった。念のため付け加えておくと、抽象的な概念レヴェルでこそ書き表せるものがあるし、当然ながら、哲学や思想はそういった側面が強い。そしてそれが抽象的な概念だからこそ、今でもマルチチュードについて考えることができる。〈帝国〉によって支配され、しかし〈帝国〉を推進するマルチチュード。それはアメリカによって支配され、しかしアメリカを推進する民衆のことかもしれない。そしてそれは矛盾でなく、ひとつの事実の二面性だろう。マルチチュードが抱えるその二面性を切り拓こうというのが、ネグリとハートの戦略でもある。物事には良し悪しの二面性があり、その割り切れなさを受け入れよとの発想は、どちらかといえば右派(= 保守派)の思想に近い。しかし左派であるふたりの著者はそう主張している。思えばドトールやベローチェのようなサプライチェーンで本書を読む自分もまた、考えようによっては、そうした二面性を抱えるマルチチュードそのものなのだった。