Review | 長渕 剛「泣いてチンピラ」


文・写真 | コバヤシトシマサ

 この街でチンピラになってしまいたい、という歌。この歌がずっと気になっている。

 1987年に発表された長渕 剛『泣いてチンピラ』。この時代の長渕に特徴的なモチーフがテーマになっており、端的にいうなら“不良”とか“不良への憧れ”が扱われている。長渕 剛についてあまり関心のない人でも、彼の持つそうしたエッセンスについてはなんとなく知っている人も多いかもしれない。この楽曲はまさしくあのテイストの範疇にある。

 若者文化には“不良”をモチーフにしたものが数多ある。社会一般にはルールや規範があり、しかしそれらに従わない者たちがいる。彼らはアウトロー的な立ち位置におり、勝手気ままに何かをやらかしてしまう存在だ。喧嘩があり、刹那的な感性がある。やんちゃな者たち。“やんちゃ”という形容詞が指すのはある種の男性性のことであり、つまり“不良”というのは極めて男性的なものだ。ある種のマッチョな価値基準でもあり、だから昨今では歓迎されない価値観ともいえる。この先だんだん古びていく文化かもしれない。たとえばかつて松田優作が演じていたようなアウトロー的な文化はこの先、歴史遺産になる可能性もある。

 ところで長渕 剛が持つ“やんちゃ”なテイストに関しては、その好みがはっきり分かれるところだろう。ああいった感性は一切受け入れられないという人も多いかもしれない。極めて男性的なダンディズムと、それゆえ露呈するかっこ悪さのようなもの。彼に特徴的なその美学に、自分はこれまで愛憎半ばする感情を持ち続けてきた。いや、正直に告白しよう。長渕 剛の楽曲に対する愛情を自分はこれまでひた隠してきた。どこか気恥ずかしさがあったし、自分だってクールでスタイリッシュなアートのほうが好きなんだ……でもあの愚直で滑稽ですらある“やんちゃぶり”を無視できない。長渕 剛はずっと心に刺さったトゲのようなものだった。

Photo ©コバヤシトシマサ

 不良。やんちゃ。現在のカルチャーを見渡してみるに、ヒップホップの世界にはまだそうした文化が残っているだろうか。もちろんヒップホップはそれ“だけ”の文化ではない。それでもふてぶてしい彼らの振る舞いには、規範に従わずに生きるのを良しとする思想が垣間見えもする。

 自分はこれまで“不良”とは無縁の生活をしてきた。喧嘩もやんちゃもなし。この先もきっとそうだろう。そもそも“ワルさ”への憧れのようなものはあまりない。しかしいかにもワルそうなラッパー達がリリックで何かをあらわすのに、ずっと惹かれてきた。ラップというのはなんだろうか。既存のルールに従わないかのような彼らが、リリック = 詩を必要とするのはなぜだろう。ゾクゾクするようなライムで競ってみせる彼ら。

 個人的な感慨をさらに続ける。長渕 剛「泣いてチンピラ」を初めて聴いたのは10代の初めの頃だった。すぐに好きになった。以来、何度も繰り返し聴いていた時期があり、最近はそう聴き返すこともなかったのだが、それでも曲の中のあるフレーズがずっと引っかかっている。

ずらかっちまった方が ましだと考えた朝
紙コップの味噌汁をかじれば 天井が笑う

――長渕 剛「泣いてチンピラ」

 この街でチンピラになってしまいたいというのが「泣いてチンピラ」の基本的なテーマ。不良に対する憧れ、社会からドロップアウトすることへの憧憬があり、喧嘩に明け暮れては刹那的に生きる情景が描かれる。そうした場所で上の言葉がふいにつぶやかれるのだ。曰く、どうにもヤバい状況になり、いっそこのまま逃げてしまおうかと思いあぐねていたところ、ふとカップの味噌汁を“かじった”なら、天井がこちらを見て笑っている。このあまりに詩的な情景描写。強気と弱気とが合い混じった“ままならなさ”。

 こうした不良と詩の遭遇にこれまでずっと心を捉えられてきた。前述の通り、自分には不良への憧れはない。しかし不良的な感性が時にこうした詩的な爆発を起こすのにたびたび眩暈を起こしてきた。喧嘩だのチンピラだの、自分にはまったく現実味のない世界で書かれたこの2行の言葉。現実味はないのだが、しかし妙なリアリティがある。そのリアリティの正体が何なのかよくわからず、わからないゆえに生々しい。

 ヒップホップの世界でラッパーたちがリリック = 詩を著すのも、これに近い感触がある。アウトローたる彼らは勝者であり、敗者でもある。そうした場所にいる。たとえばヘンリー・ミラーもその場所にいた。彼らは社会からはドロップアウトしているが、しかしそれゆえ社会をひっくり返してしまうのを厭わない。強さを信望しているが、部屋の天井に笑われもする。彼らの詩はときに社会の中心的な基準を切りつけるが、そもそも“社会の中心的な基準”だけで生きているような者は誰もいない。多かれ少なかれ、わたしたちは誰しもそこを踏み外している。

 やんちゃな不良たち。彼らは規範の外からわたしたちに言葉を届ける。はっとするような詩をあらわすのは、いつでも彼らのような者たちだ。

のがれのがれて 破れた襖(ふすま)にもたれて
流す涙を ひとつなめた

――長渕 剛「泣いてチンピラ」

Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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会社員(システムエンジニア)。