Review | セブン-イレブン『銀座デリー監修 カシミールカレー』


文・写真 | コバヤシトシマサ

 セブン-イレブンの「カレーフェス」が開催された。銘店のカレーがセブンイレブンに並ぶという企画。自分の周りではけっこうな話題になったが、世間的にはどうなのだろう。わからない。が、あの「デリー」のカシミールカレーがセブンの店頭に並ぶと聞き、ともかく駆けつけた。レンジでチンして、いざ食すと……店で食べるのと遜色のない味、色、香り。うまい。スパイスの中でも特にクローブが効いており、辛味と苦味の中にかすかにミントのような香りを感じる。食べている間中、体の中に絶え間なく風が吹く。爽快な風。モンスーン。そう、デリーのカレーはほとんど風に近い。風になりたい、風をあつめて、答えは風の中にある……。

 久しぶりに食べたカシミールカレーに満たされ、思い出したことがある。銘店デリーのカレーが自分にもたらした、ひとつの境地について。いわゆる“自分語り”になるのを承知で、それについて書いておきたい。

Photo ©コバヤシトシマサ

 一番最初に好きになったカレー屋さんは、東京・御茶ノ水「エチオピア」だった。今から15年ほど前のこと。当時の職場が神保町にあったため、ごく自然な成り行きとしてエチオピアに出会う。通ううちに愛着は募っていった。オーダー時に選べる辛さの調整もエスカレートしていく。カレーのスパイスが心や体に変化をもたらすのを、この店で最初に知った。

 そう、スパイスは心と体に変化をもたらす。誰しも経験があるように、カレーの辛さは気分を高揚させる。発汗があり、舌に痺れを感じる。それだけではない。スパイスは人を精神的な平穏へと連れていく――そう感じるのは自分だけだろうか。今風に言うなら“チルい”というのが近いか。ともかくエチオピアのカレーの食後には、揺らぐことのない広大な大陸が内面世界に広がる。穏やかな安心感に包まれる感覚。スパイスにはそうした作用がある。

 そんな事態を、エチオピアのカレーで初めて体験した。スパイスがもたらす高揚と安堵が特別なものになった。要するに好きなカレー屋さんによく通っていただけなのだが。それでもそれは愛着を超え、ある種の信仰のようなものになっていった。エチオピアのカレーがあるならば、もはや他のカレーはいらない。もし仮にもっと美味しいカレーが他にあったとしても、もはや自分には必要ない。なぜなら自分にはエチオピアがあるのだから。当時のそうした感慨は、信仰と呼ぶに相応しい。

 そうした信念を持つに至って数年が過ぎた頃。あるカレー屋に出会い、自分は膝から崩れ落ちることになる。水道橋「パンチマハル」がそれだった。

 初めてパンチマハルのカレーを食べたとき、頂点の極みを越えるような感覚を覚えた。美味しいだけでない。それは明らかに“極みを越える”体験だった。研ぎ澄まされた五感がさらに鋭利になっていく。すぐに虜になった。エチオピアという頂点を、さらに越える極みがまだ世界には存在したのだ。これにはまったく途方に暮れてしまった。

 「エチオピア」と「パンチマハル」。ふたつのカレー屋。ふたつの極み。もともとエチオピアに対して信仰に近い思いを抱いていたが、その信念は揺らいだ。正教と異教のあいだで揺れる信徒のように。ではどちらが正教で、どちらが異教なのか。誰にも決められまい。しかしエチオピアを裏切るような気分になったのも事実だった。その意味では、パンチマハルのカレーはある種の踏み絵となった。このとき自分は、ひとつの信仰を捨てたのだ。要するに好きなカレー屋さんでカレーを食べていただけなのだが。

 そうした猜疑に飲まれ、心は揺らぎ、それでもスパイスという秘薬に魅せられる日々。パンチマハルは麺のメニューがあるのも良かった。ビーフンの麺が胃腸に優しい。だから食べ終わると、またすぐその日のうちに食べたくなる。正教だろうが異教だろうが、構いはしない。気分を高揚させるカレーがそこにあるならば。

 それでも心の奥底には疑義があった。自分は「エチオピア」を捨てて、「パンチマハル」を選んだ。ただひとつの信念の手綱を、自ら手放したのだ。

 まさにそんな時だった。上野「デリー」に出会ったのは。「エチオピア」「パンチマハル」に続く第三の啓示として「デリー」は現れた。そのカシミールカレーを初めて食べたとき、それは風となって吹いた。エチオピアのカレーにも通じる、特徴的なクローブの高揚感。カシミールカレーの皿に、玉ねぎのアチャールを放り込む。荒れ地と化したその漆黒をスプーンですくい、胃の腑へと収めていく。次第に香りは強くなり、熱帯の風が吹き荒れ、迷いも葛藤も過ぎていく。

 デリーのカシミールカレーは、和をもって尊しとなす平穏の世界へと自分を導いた。大河のような大らかさが、デリーのカレーにはある。正教も異教もない。ただ風は吹くし、ただ大河は流れる。それでよい。クローブの清涼は、そのまま赦しの印しとなった。大好きなカレーがある。それだけでよい。

 デリーのカレーはほとんど風に近い。風になりたい。風をあつめて。そして、答えは風の中にある。

 (カレーフェス、ありがとう。セブンイレブン、ありがとう。デリーのカシミールカレー、5回食べたよ)

Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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会社員(システムエンジニア)。