Review | ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』


文・写真 | コバヤシトシマサ

 ジャン=リュック・ゴダールが亡くなってしまった。享年91。

 訃報を受けて何かゴダールの映画を観ようと思い、『気狂いピエロ』(1965)を観直した。ゴダール作品の中でも特によく知られたこのロードムービーは、たしかにいくらかわかりやすい魅力がある。スタイリッシュな画面と、男女の刹那的な物語。久しぶりに観直して、映画の最中に眠くなる例の時間を久しぶりに味わうと同時に、作品の印象が以前とは大きく変わった。それについて記してみたい。

 『気狂いピエロ』は逃避行を描いた映画だ。男と女が殺しに手を染め、パリの街を飛び出し、ひたすら逃げる。ジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが南を目指す。照りつける太陽。“逃避行”と“太陽”とが描かれており、ストーリーとしてそれ以上のものは特にない。音楽は始まり、唐突に止む。説明なく死体が横たわる。銃の発砲も、ナイフによる殺傷も、すべてが唐突。理由を欠いたその理不尽さが、逃避行のスピード感を煽る。そこに差す南仏の太陽。それらがシネスコの横長スクリーンを右から左から瞬時にあらわれては、瞬く間に過ぎていく。

 なぜかそんな印象を持っていた。『気狂いピエロ』について。ところがそうではなかったのだ。

Photo ©コバヤシトシマサ

 なによりふたりの逃げ足が遅い。夢によくあるエピソードで、追い手が追っかけてくるのに足がもつれて逃げられない、というのがある――誰しも経験があるのではないだろうか。まさにあの感覚。ふたりはオープンカーを南へと走らせるのだけれども、車が爽快に駆け抜ける場面がこの映画にはない。軽快な音楽と共にハイウェイをかっ飛ばす、なんていうシーンがひとつもないのだ。車といえば、ガソリンスタンドに停車していたり、あるいは海へと突っ込んだり。いつでも“停止”してしまう。そのたび思弁的な会話をブツブツとつぶやく男と女。このふたり、実は最初から逃げる気なんてないんじゃないか?観ているうちにだんだんそんな気がしてくる。どこへも逃げられないという諦めムードが支配的になる。アントワーヌ・デュアメルのスコアによる不穏な音楽とも相まって、その空気はとても重々しい。

 思うにそもそもゴダールの映画は、流れるようなカメラワークとは無縁だった。人物や風景が美しく流れていく映像がほとんど記憶にない。すぐに思い出せる例外として、『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)には森の木々をクレーン撮影で収めたシーンがあった。自然の美しさを移動カメラで収めるという“ベタ”な演出が、それまでのゴダール作品にはなかったので、これには大変に驚いた。驚いてしまうほどにそのシーンは“普通に”美しかったのだ。それはゴダール作品としては極端な例外であって、彼の映画では人も風景も“停止”している。逃避行の物語である『気狂いピエロ』でも、ふたりの主人公――ベルモンドとカリーナ――は停滞を余儀なくされる。逃げても、逃げられない。

 ところで1960年代のゴダールにとって、女優アンナ・カリーナがミューズの役割を果たしたことは間違いない。今では彼女はヌーヴェル・ヴァーグのみならず、ある種のフランス映画を象徴する存在だと思うのだけれども、画面に映る彼女の姿には美しさと無様さが同居するかのような印象がある。例えば『勝手にしやがれ』(1960)のジーン・セバーグのような洗練が、アンナ・カリーナにはない。美しさと無様さが同居する彼女の不思議な存在感は、そのままゴダールの作風にも当てはまると言えないだろうか。

 カリーナは『気狂いピエロ』でふたつの劇中歌を歌う。ミュージカル仕立てで歌われるふたつの小曲「わたしの運命線」と「一生愛するとは誓わなかったわ」。全編を覆う重苦しい雰囲気とは不釣り合いな、あまりにあっけらかんと陽気なその歌。こうした不釣り合いなギャップこそゴダール的だとファンは納得してしまう(?)のだけれども、主人公ふたりの運命も実にあっけらかんとしている。エンディング近くでふたりは別々に死を迎えるが、その死に重々しさはない。むしろ“どこへも逃げられない”という沈鬱なムードは、ふたりの死によってはじめて解放される。おかしな話ではあるが、重々しい空気は死によって晴れるのだ。自爆を決意したベルモンドがその決行直前、自らの死について逡巡する時間はわずか1秒にも満たない。彼の唐突な死によって沈鬱なムードから解放され、物語はエンディングへと向かう。

 この映画の印象についての最初の疑問に戻る。なぜこのような沈鬱な映画を、あたかも爽快な逃走劇のように感じていたのだろう。なにか特別なマジックがこの映画にはあったのだろうか。今ゴダールの訃報に触れ、彼への追悼として小さな飛躍を試みるなら、それはゴダールがこの世界に生きていたという魔法ではないだろうか。彼は映画の歴史にとって奇妙な存在だった。その始めから、終わりまで。そして突拍子もない彼のその死が、これまで映画ファンを煙に巻いてきた魔法を解いたのではないか。だから今『気狂いピエロ』は、素のままの姿でこちらに映ったのではないだろうか。

 ジャン=リュック・ゴダールの冥福を心からお祈りします。ありがとう!さようなら!

Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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会社員(システムエンジニア)。