文・写真 | コバヤシトシマサ
最近、本の虫になってしまった。何も予定がない休みの日なんかは、文字通り1日中本を読んでいる。忙しないこのご時世、暇人の優雅(?)を満喫しているわけだけども、こんなに読むようになったのは20年ぶりくらいだろうか。なんとなくではあるけれど、ある程度の年齢になったらインプットよりもアウトプットが大事だと考えていて、つまり観たり読んだりして知識を増やすことよりも、そうした知識を使ってどう生きるかにフォーカスすべきでないか。そんな風に感じていたのに、まったくそうはなっていない現状をここに報告しておく。
地元には気の利いた古本屋さんがあって、本を調達するのに重宝している。少し前、店頭のセール品コーナーにて、とある本を手に取った。開高 健『ロマネ・コンティ・一九五三年』(1978, 文藝春秋)。背表紙のタイトルを目にしたとたん、はじめて読んだときの強烈な印象がよみがえる。文庫で持っているのだけれど、珍しい単行本を見かけたので、そのまま購入してしまった。単行本は現在絶版のはずで、こうした本との出会いは古本屋でしか望めない。この「探してもないものに出会える」というのが、本屋の醍醐味だったりする。
本書は開高 健による短編小説集。中でも冒頭に収められた「玉、砕ける」は抜群な傑作だと思う。それは小説のような、エッセイのような、紀行文のような。わずか14頁の掌編。香港を舞台にしており、主人公の「作家」は開高本人ではないか。旅を始めたときの真新しい情景が、やがてくたびれた日常に堕していくのを詩的なスケッチとして素描する冒頭から始まり、あっという間に終わってしまう短い文章。
「作家」は旅の終わりに香港に寄り、現地の知人に会う。そこで彼は知人に奇妙な問いを投げかける。もし誰かに是か非かを問われ、是と答えたなら罰せられるが、しかし非とは答えたくないとするなら、いったいどう答えたらいいか?と。
二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに「シャアパ(殺せ)!」「タアパ(打て)!」「タータオ(打倒)!」と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。
――開高 健『ロマネ・コンティ・一九五三年』 | p13
なにやら奇妙な設問だが、この問いは文化大革命の時代の中国を背景としている。知識人への弾圧が激しく、彼らの多くに粛清がなされたとされる時代。自己批判を迫られ、もし正直に答えたなら粛清される。だからといって嘘は付きたくない。そんなとき、いったいどう答えたらいいか。「作家」はそれを問うている。
考えあぐねた知人はこれに答え、中国の作家、老舎の語りを紹介する。その内容についてはぜひ本書を読んでみてほしい。老舎が語ったとするエピソードは言外に多くの含みを持ち、それは愉快かつ深淵なものだ。それはたんに政治的な弾圧をどう切り抜けるかという問題だけに収まらない。是か非か割り切れない事態において、人はどう生きればいいのか。そうした視座のようなものを描き出していないか。
普段の職場や家庭で、人はそれぞれに物事の是非を判断して生きている。人は“割り切って”やりくりしている。生活の節々でいちいち判断を保留し、立ち止まっていては、とてもやっていかれない。それはそうだとして、では心の内面はどうだろう。そこでは是や非が割り切れないまま留保されることはよくあるのではないか。そこは正と悪とが混濁した海であり、それがわたしたちを困難な航海者にもしている。それは人間の条件のようなものかもしれない。完全に正しい人はいないし、完全に間違っている人もいない。誰しも部分的には正しく、部分的には間違っている。ひとりの人間において、正と悪とはまだらに点在し、共存している。文学や芸術はそうした機微をこそ描いてきた。アルベール・カミュ『異邦人』(1957)、フランシス・フォード・コッポラ『地獄の黙示録』(1979)、濱口竜介『悪は存在しない』(2024)……。
ふたつの椅子のどちらにも座ろうとしない老舎が、座ることなく答えた様子は、この困難な航海において、それでも何かを語り、いくらかの生を満たす方法を示唆しているように思える。あるいはこう言い換えてもいい。いつでも決断を迫られるわたしたちは、その決断からこぼれ落ちたものを失う。それが世の常だとして、しかしそれらを引き留めておく語り方もあるのではないか。それがごくささいな祈りのようなものに過ぎないとしても。
最終部、開高が描く香港のふやけた旅情は一転、老舎の不穏な運命が告げられることで、この短い小説は終わっている。ここで告げられる不穏とは、つまりわたしたちの海が持つそれなのではないか。玉は、砕けたのだ。