Review | 自炊 | 調理から制作へ


文・写真 | コバヤシトシマサ

 パスタを茹でて簡単なスパゲティを作る。オリーブオイルとニンニクをベースにするとして、刻んだパセリは用意しておきたい。あとは有り合わせのもの。キノコもいいし、ペーコンもいい。トマト、アスパラ、青ネギ、オクラなどなど。出来上がった皿にレモンをひと振りするのも美味い。その場合はポッカレモンで十分。実はタバスコを振って食べるのも好きで、よくやる。

 ほぼ毎日自炊している。調理というのは台所でするものだけれど、自炊という営みの全体を見るなら、そこには買い出しがあり、調理があり、味の良し悪しがあって、食べた後には洗い物がある。それだけではない。冷蔵庫の中のストックを把握しておき、買い出しの時間を調整し、今晩は何を作ろうかとやりくりする。飽きが来たメニューのヴァリエーションについて日々思案しながら、ヒントになりそうな情報にはアンテナを張る。自炊を始めると、そうした意識がいつでも頭の片隅にある。それらの営為を総称して“自炊”と呼ぶのだろう。

 ところで今年も終わりが近づいてきた。2023年ももうすぐ終了。いやはや。締めくくるにあたって本年を総括する、とかいう発想に乏しい人間だけれども、ここ数年、老いについては考えることが多い。現在48歳、中年真っ只中。体力の低下を感じるのはあまりに頻繁すぎて、もはや意識すらしなくなった。しかし知力の低下についてはやや考えるところがある。知力というよりは知的好奇心の低下といったほうがいいだろうか。巷間言われる通り、ひとはだんだん新しい文化に疎くなっていく。

 どこぞの誰かが新しいカルチャーに疎くなろうがなるまいが、他人にとっては全く以てどうでもいいわけだけれど、当人としてはけっこう寂しかったりもする。そもそも文化への関心の質が変わってきた。以前は映画を観たり音楽を聴いたりするだけで満足だったし、夢中になれた。ところがここ数年、だんだん様子が変わってきている。こういう言いかたが正しいかどうかわからないのだけれど、自分がただ消費しているだけのような気分になり、それが虚しくもなってくる。

 こうした傾向は必ずしも一般的なものではないだろう。老いてなお「推しが尊い」だけで突っ走る諸先輩方も多い。それを否定する気など毛頭ないし、否定どころか、ああしたファンダム文化のパワーを羨ましいとすら思う。あれほど夢中になるだけの気力が自分には欠けているのではないか。大げさかもしれないけど、文化芸術を愛する者として忸怩たる思いがどこかにある。

 そうした事情もあり、実は数年前から音楽やアートを自分でも作るようになった。つまり観たり聴いたりするだけでなく、実作の趣味ができたわけだ。こうして文章を書いたりするのも、もともとはそうした経緯があって始めたこと。ちなみに自分のこうした傾向は、ある種の中年が蕎麦を打ち始めたり、あるいは自作のスパイスカレーに凝り始めたりするのに近いと考えている。中年は皆、心のどこかでただの消費者であることに虚しさを感じ始めるのではないだろうか。だからああして自分で作りはじめるのではないか(違うかな……)。

Photo ©コバヤシトシマサ

 書いたり作ったりするようになってわかったことがある。なんであれ制作を継続するためには、それをルーティン化する必要があるということ。単に好きでやってる以上、ノルマも期限もない。そもそも自分の満足以外にはそれをやる必要すらないわけで、実のところ趣味のほうが仕事よりその継続が難しいのではないかと最近考え始めている。たいていの場合、ひとはそれに飽きてしまうものだ。趣味であるかぎり、飽きたらやめればいいわけで、それでまったく問題ない。しかし制作とは別の方法で喜びを調達するのもなかなかに難しいとなれば、継続する方法を見つけなければならない。

 そしてあることに気づいた。制作と自炊は似ている。似ているというか、ほとんど同じなのだ。

 文章でも絵でも音楽でも、自分で何か書いたり作ったりする場合、アイディアや計画を日々ストックしておく必要がある。その上で仕事なり生活なりの時間をやりくりしては、それらを基にして書いたり作ったりする。そうしたひと通りの段取りをある程度の決まりごと、つまりルーティンにしておかない限り、少なくとも自分は継続できない。これは自炊もまったく同じだ。日々頭の片隅に朝夕の食事についてのアイディアや計画があり、自炊は行われている。つまり生活のなかのルーティンと化している。

 自炊であれ、制作であれ、手間や時間がかかる。しかもそれらを生活と並行させる必要がある。この並行が面倒といえば面倒なのだが、では自由な時間が無制限にあればできるかというと、これが実はそうでもない。たっぷりの暇があり、これだけ暇があるならなんでもできると考えていたところ、結局何もせず終わる、なんていうのはよくある話。

 自炊の習慣は、結果として生活におけるルーティンの訓練になっていた。それを実感するようになったのはごく最近のことだけれど、ルーティン化の手捌きは制作という別の局面へと応用され、それは中年クライシスに陥っていた(?)自分を救ったのだ。料理の得意不得意とは関係なく、どこか満たされなさを感じているなら、まずは自炊から始めてみてはどうだろうか。少なくともそれは自分の生活を自分で取り仕切るための手綱にはなる。そして場合によっては、そこで得たルーティン化の手法は、別の可能世界へとあなたを開くことになるだろう。たぶんだけど。

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Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
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会社員(システムエンジニア)。