Review | 水凪トリ『しあわせは食べて寝て待て』


文・撮影 | しずくだうみ
水凪トリ『しあわせは食べて寝て待て』 | 秋田書店 秋田レディースコミックスDX

「これまでの自分と比べるからしんどくなるのよ こう考えるのはどうかしら 新しい自分になったのだって」

 荒みきった私の心に、漫画の台詞が穏やかな風を吹かせてきた。

 主人公の麦巻さとこは、元々は会社員として働いていて、マンションを買って今の家から引っ越すのだと心の奥で思っていた。しかし、体調を崩して受診した病院で膠原病と診断されたさとこには、週5回のフルタイムの勤務は厳しくなっていた。退社したのち、知人のつてで週4回のパート勤務で生計を立てるようになった。そして、会社員時代に住んでいた家を引き払って引っ越した先は分譲マンションではなく、家賃5万円の団地の一室だった。

 ここまで聞くとつらく悲しいストーリーなのかと思うかもしれないが、この漫画のタイトルが『しあわせは食べて寝て待て』であることを忘れてはならない。さとこが借りている部屋のオーナーのおばあさまと、おばあさまの家に居ついている司さんをはじめとして、さとこの周りにはほどよいあたたかさの人たちが集まっている。そしてその人たちと話したり、薬膳について教わったり、たまに食事を共にしたり、そういう交流を繰り返すことで少しずつ変わったり変わらなかったりして、体調が悪いなりに生活を楽しむさとこの様子が描かれている。

 そして、こんな人生になるはずじゃなかったと思っているさとこに対して、おばあさまが言った台詞が、「これまでの自分と比べるからしんどくなるのよ こう考えるのはどうかしら 新しい自分になったのだって」だった。膠原病ではないが、1年ほど前から鬱まっしぐらな私にとって、この言葉が穏やかな風となり、あたたかさが胸にじんわりしみた。新しい自分であれば、今ここからの未来だけ考えればいい。こう考えることがなかなか難しいときもあるが、頭の片隅にあるだけで私は少し救われる気持ちになった。

 私もさとこと同じく、まさに長時間の労働がかなり難しい。思考がまとまらず、眠気が無限にやってきて暇さえあればつらさの谷に落ちてしまう。そんな状態でも私は休む選択ができなかった。メンタルの問題ではなく、脳の問題だと思っていても、当人ですら気合いの問題なんじゃないかと思ってしまうときがある。

 そんなつらい日々の中でも多少の楽しみはあって、そのひとつは食だった。そして、食べるものを整えると体調や気分にも影響が出ることを、鬱が激しい中で改めて実感した。私自身はこの漫画の登場人物のように薬膳に凝っているわけではないが、栄養バランスをきちんと整えた日は比較的調子がいい。逆にジャンクなものを食べてしまうと、どことなく調子が悪くなる。食べたものが身体になっていくから当然と言えば当然なのだが、なんとなく過ごせてしまうと忘れてしまいがちだ。個人的には米を食べすぎるとあまり調子がよくない気がしていて、少し控えめにしている。そういうことをコツコツ積み重ねたところで、よくて人並みの調子なのだが、感じかたの話だから、実際のところ他の人がどうなのかはわからない。わからないからこそ他人に理解はされない。ただがんばれない、やる気がない人として認識されるのが私の人生の中では常だった。でも、さとこの周りの人たちはもっとずっと優しい。体調の悪さという、ままならないつらい現実の中でも、おいしいものをバランスよく食べる楽しさを見つけ、さらに周りの人たちにも恵まれて日々をほんのりハッピーにさとこは過ごしている。“ほんのり”というのが大事で、あまりテンションを上げすぎるとその後落ちるのがこわいと私は思ってしまうし、フィクションの中でもそう思ってしまう。この漫画の作者はそのあたりの塩梅をよくわかっている。“ほんのりハッピー”なさとこの姿は、同じような境遇の人はもちろん、毎日元気に過ごせている人にも心があたたかくなる力があるように思った。

しずくだうみ Umi Shizukuda
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しずくだうみ東京のシンガー・ソングライター。

これまでに2枚のアルバムを「なりすコンパクトディスク」(HAYABUSA LANDINGS)、「ミロクレコーズ」よりリリース。自主レーベル「そわそわRECORDS」からは5枚のミニ・アルバムをリリースしている。

鍵盤弾き語りのほか、サポート・メンバーを迎えたバンド・スタイルや、デュオでのライヴ演奏で都内を中心に活動。ライヴ以外にもトラックメイカーによる打ち込み音源など多彩なスタイルで楽曲を発表している。現在はライヴ活動は休止中。

睡眠ポップユニット sommeil sommeil(ソメイユ・ソメーユ)の企画運営でもある。楽曲提供は、劇団癖者、ジエン社、電影と少年CQ、朱宮キキ(VTuber)ほか。