文・撮影 | しずくだうみ
千葉雅也, 山内朋樹, 読書猿, 瀬下翔太『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』 | 星海社新書
「書けなくても何か書くのだ」と父に言われて育ってきた。初めて言われたのは小学生くらいの歳だったか。当時は意味をあまり理解していなかった。今は意味はわかるが、実践できているかと訊かれるとできていないと思う。
私がちょうどこのレビューや歌詞やらを“書けない”でいるとき、予約していたこの本がポストに入っていた。これまで書いた2本のレビューは漫画について書いたし、3本目も漫画のつもりで題材の漫画を読み返したりしていた。でも書けなかった。ちょうど届いたこの本に、「書け」と言われた気がした。まぁ、つべこべ言ってないで書きなよという内容だから必然と言えばそれはそうなのだが。『ライティングの哲学』というかっこいいタイトルがついているが、誤解を恐れずに言えばこの本は“書けない自分といかにたたかうか”のハウトゥ本に近い。
様々な言い訳をしても締め切りはやってくる。しかし、締め切りがやってくる場合はまだいい。自主制作の多くの場合には締め切りは存在せず、自分がやるか否かにすべてがかかっている。誰かがなにかやってくれる工程は一切存在しないのだ。だらだらもキビキビもできる環境で、いかに文章を効率よく書いていくか。また、そのモチベーションを維持、というかそもそもかなり低い場合にどうやって原稿に向かっていくかは、プロ / アマ問わず文章を書く人間にとっての永遠の課題だろう。それがなく書けてしまう人も、もしかしたらいるのかもしれないが、ある程度の文字数がある文章を定期的に発表するとなると小手先の技術ではやっていけない。そうなると知識 / 経験を総動員するのはもちろんのことだが、下調べするのも必要になってくる。さらに、多くの文章を書いている人であればあるほど、「この文章で本当にいいのだろうか」という疑念が常に追いかけてくる。そういった、”文章を書く人あるある”から、じゃあ実際どうしてるのよ!といった実践的なことまで、1冊で網羅されている。
私の個人的なことで言えば、原稿に向かっている時間だけでなく、生活しているだけに思える時間にも頭の隅に原稿が鎮座している。一見邪魔に思えるが、これがけっこう重要だと思っている。寝ても覚めてもずっと原稿について考える中で、日々の何気ない会話やSNSでのやり取りがヒントになってひらめくことがある。とはいえ、コロナ禍で人と会う機会がめっきり減った今、後者がメインになっているが、これがなかなかよろしくないのだろうと思いつつ、どうすることもできずにいる。時折友人とオンラインで通話することはあれど、基本的に会話に飢えているらしく、知り合ったばかりの取引先のかたとのオンラインの打ち合わせでもテンションが上がるのを自覚した時は笑ってしまった。じゃあ、オンラインの通話の機会をもっと作ればいいじゃないかと思うかもしれない。しかし、互いが互いのことをおもしろいと思って話すことを望んでいる関係はそう多くない。飲み屋で知り合いと偶然会ってなんとなく話すときのような“場の強制力”がオンラインにはなく、話すことを望むのが、コミュニケーションの最初のステップとなる。「相手が話したいかなんてどうでもいいじゃん!ガンガンいけー!」というわけにもいかないし、このステップは最初でありながらラスボス級の障壁となる。そんなわけでひらめくまでのあれそれが減っている状況なのだが、なんとかして書いていかなければならないことは変わらない。
要するにインプットの方向性を変えていく必要があるのだが、ぼーっとしているとインプットをしなくても最低限の生存はできてしまう。そうこうしていると原稿が頭に鎮座したまま何日も経過して、何もできなかったという無力感を抱えて憂鬱になりがちだ。一度そうなってしまうと抜け出すのはけっこう難しい。映画を観ようが、漫画を読もうが、音楽を聴こうが、それらがただ自分の身体を通過していく感覚。創作物を摂取できる間はまだマシなのかもしれない。あまりにもひどいときはそれら全てを受け付けなくなる。しかも書くこともできない。そして、冒頭の父の言葉が蘇り、何もできない自分がまた嫌になる。
本の中では文章を書くときの環境について話されているが、私はMacintoshのアプリのメモ帳をMacBookとiPhoneで同期して使っている。テキスト系はなんでもかんでもとにかくここに突っ込んでいて、この文章のひとつ前のメモは買い物メモで、ふたつ前は歌詞用のメモ、みっつ前がこのレビューの草稿のようなものである。インプットとアウトプットが混在し、混沌としていて全然整理されていない状態がなぜか安心する。その状態を眺めていると、昔出会った人に「目的別にノートを分けろ」と言われたのを思い出す。そういう風にやるといいのか、とその当時大学生だった私は素直に思ったような気がする。しかし、そのやりかたは私に全然向いていなかった。特に物理で存在するノートは、物をなくしやすい人間にとって1冊が限界だ。1冊でもなくすのに、何冊も管理するなんて夢のまた夢のような話なのだ。それに気がついた私は、ノートを分けるということを一切やめた。大学の授業の板書も歌詞のメモも友達との戯れの落書きも全て同じノート。どうせ私は連続した意識の中にいるんだし、ノートを分けることで切り取ろうとしたってうまくいかないと思っていた。実は今もそう思っている。
月日は流れ、今は物理ノートとMacintoshのアプリのメモの両方をなんとなく使っているが、その比率は1:9くらい。つまり物理のノートはほぼ使っていない。前に書いた日付が1ヶ月前というのがザラである。手書きのいいところは図などをさっと残せることだろうか。二重線で消しても残るところもいいと思ってはいる。しかし、ただでさえ荷物が多い人間がノートをまめに持ち運ぶことができなくなった。昔はできていたのに。忙しさなどにかまけてそんな状態が続いているのだが、そうなると何が起こるかというと、端的に言ってアウトプットがへたくそになる。ノートを取ろうという意識があるときは記憶力も少しいいような気がする。忘れたくないことがあるという状態はけっこう幸せなことなのだろう。
ここまで色々書いてはみたが、文章を書いている気はあまりしていない。文中で筆者のひとり・瀬下さんが言っているように、「ラリってメモを取り続ける」ことを繰り返した結果、出来はともかくこのくらいの文量にできたから、今年の買ってよかったものランキングにランクインしそうである。
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これまでに2枚のアルバムを「なりすコンパクトディスク」(HAYABUSA LANDINGS)、「ミロクレコーズ」よりリリース。自主レーベル「そわそわレコーズ」からは5枚のミニ・アルバムをリリースしている。
鍵盤弾き語りのほか、サポート・メンバーを迎えたバンド・スタイルや、デュオでのライヴ演奏で都内を中心に活動。ライヴ以外にもトラックメイカーによる打ち込み音源など多彩なスタイルで楽曲を発表している。現在はライヴ活動は休止中。
睡眠ポップユニット sommeil sommeil(ソメイユ・ソメーユ)の企画運営でもある。楽曲提供は、劇団癖者、ジエン社、電影と少年CQ、朱宮キキ(VTuber)ほか。