Column「平らにのびる」


文・撮影 | 小嶋まり

20

 ずっと絵を描いてみたいと言っていた母が、いつの間にか中高年向けの絵画教室に通っていた。コロナ禍でも気を遣いながら細々とレッスンは続いたらしいけれど、陰謀論好きだった先生が5Gの届かない場所へ行きますと言い残し、どこか僻地へ引っ越してしまったらしく、それから母は絵を描いていない。

 先日、実家へお昼ご飯を食べに行ったら、テーブルの上に母のスケッチブックが置いてあった。絵画教室の生徒たちが変わりばんこにモデルになり、デッサンの練習をしていたときに使っていたものだった。中身を見せてもらうと、丁寧に描かれた禿げのおじさんの絵があった。この人を描くのは難しかった、と母は言った。どうやら、禿げという事実を緻密に描き出すのが失礼にあたってしまうのではないかという気遣いがあったらしい。

 わたしは、高校2年生のときに留学することになった。海外では物事をはっきりと伝えたほうが良いというのを聞いていたので、しっかり自己主張しなくてはと意気込んでいた。引っ越してすぐにできた友達のおじいちゃんが、家に招待してくれたので遊びに行くと、日本人はお米が好きだと聞いたからとライスプディングを作ってくれていた。ご馳走になりますと食べてみると、脳みそが麻痺しそうなくらい甘くてお世辞にもおいしいとは言えなかった。おじいちゃんが、おいしい?と聞いてきたので、ここははっきりと感想を伝えなくてはと思い、おいしくないです、と正直に答えると、おじいちゃんの顔は曇り、なんとも微妙な空気が流れてしまった。苦虫を噛み潰したような顔、という言葉がしっくりくる人様の表情を目にしたのはそのときが初めてだったと思う。

 ずいぶん前の話でうろ覚えだけれど、恋愛をテーマにしたラジオ番組か何かで、相手に対してありのままのわたしを受け止めて、というのはずいぶん傲慢な話だ、泥のついたままの大根を、食え!と相手の前に出すようなことだと誰かが語っていた。なるほど。大根を美味しく食べるには、素材の味を生かしながらも、それなりの下ごしらえや調理が必要である。本心も、傷ましい事実も、本質を維持させつつもまぁるく伝える術が必要なんだろうな、と考えさせられた次第である。

01 | 19 | 21
正編 | トーチ (リイド社) 「生きる隙間
Photo ©小嶋まり小嶋まり Mari Kojima
Instagram | Twitter

ライター、翻訳、写真など。
東京から島根へ移住したばかり。