文・撮影 | 小嶋まり
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最近の出来事をまとめた日記を少し。
久々に晴れの日が続いている。洗濯物を干したあと、軒下でおもちのブラッシングをした。換毛期が始まり、山ほど毛が抜ける。おもちはいつもエアコンの効いた部屋でごろごろしているのに、身体はしっかりと巡る季節に沿って変化している。ブラッシングで抜けた毛を丸めて庭の草むらの中に置いておくと、野鳥がどこからともなくやってきて、もこもこの毛束をクチバシにしっかり挟んで飛び去っていく。巣作りに使うのだろうか。おもちのふわふわした毛が雛を優しく包み込む毛布として役立っていると思うと、無駄のない小さな生きる連鎖が愛おしくなる。
こちらの春は、晴れたとしても霞んでいる。黄砂なのか、花粉なのか、目に見えないくらい細かい粒子がこぞって風に乗り、視野にぼんやりとした膜を張る。車のフロントガラスもすぐに白っぽい斑点で覆われてしまう。わたしはくしゃみが止まらない。鼻が詰まり頭がぼーっとする。洗濯物は室内で干せばよかったなぁと後悔する。霞がかった空気はわたしの脳内までも濁らせる。
ここ4日間、人と全く会っていなかった。思い返せばちゃんと笑った記憶もない。そろそろ危ないかな、と思い実家へ向かった。私は孤独すぎるかも、と父に言うと、そういうときも必要じゃない?と言われた。
1週間ちょっと前は、東京の友人たちが大所帯でこちらに滞在していて大賑わいだった。夜は2部屋を仕切る襖を開け放し、総勢7人で布団を並べて寝た。最初、わたしはひとりで客間から離れたリビングで眠ろうとしたけれど、寂しくなってしまい、すでに人口過多になっているみんなの間に無理矢理布団を敷き詰めて寝た。朝早く目覚めたら、他の誰かも起きている気配がしたけれど、誰も何も言わず携帯を眺めたりしていた。ぎゅうぎゅう詰めでも、各々の距離感は大人っぽい。ちなみに、わたしが独断で思い描いている大人っぽさとは、無理をしないし、期待もしないところにある。ちょっと気になったので辞書で「大人」を引いてみると、「十分に成長した人。考え方や態度が十分に成熟していること。思慮分別があること」とあった。大人というものに全てを求めすぎである。
みんなが帰るときも、実はすごく寂しかった。空港のセキュリティゲート前でまたすぐにねーなんて言いながらさっぱりとさよならしたけれど、本当はみんなが見えなくなるまで手を振っていても構わないくらいだった。逆に気を遣わせてしまうだろうし、恥ずかしいからできないけれど。ひとりきりになって孤独がしがみついてくると、一気に子供じみてしまう。「考え方や態度が十分に成熟している大人」からは程遠い。
賑やかだった時間のあと、空っぽの家にひとりでいるのはなかなか辛い。そして、いつでもすぐに集うことができた仲間たちと離れ離れになったことを実感する。そして、恵まれた環境を手放してなぜひとり田舎へ引っ越してしまったのかと自問自答するループに陥ってしまう。今、恋人は出張中で多忙なので甘えることもできない。そもそもいつも甘えすぎなので鬱陶しいと思われてそうだ。両親に対しては気丈に振る舞ってしまうし、寂しいと愚痴をこぼせる相手も周りにいない。わたしにとって正しい選択とは一体なんだろうと考えているうちに、今日に至り、笑うのも忘れて4日間もひとりで悶々と過ごしてしまったわけである。
とりあえず息抜きをしなくてはと、実家で母の手作りご飯をたくさん食べて、姪っ子と甥っ子とビデオ通話をしたり、溜まっていた作業をこなしたり、日記を書いたりしていたら朝4時を過ぎてしまった。大人っぽいわたしは、これ以上無理はしないし、期待もしない。だから、もう寝ます。おやすみなさい。