文・撮影 | ミリ (Barbican Estate)
夏休みが近づいているからか、友人に「旅に行くのにどこがおすすめ?」と尋ねられることが増えた。未だ海外へは気軽に旅行することができないので、日本国内でどこが良かった考えた際に、気軽に行けた淡路島を勧めている。
東京・六本木 国立新美術館で2017年に開催された「安藤忠雄展 -挑戦-」は、国立新美術館の開館10周年の記念エキシビションということもあって、大型模型やドローイングといった資料は膨大な数が展示され、野外には代表作『光の教会』が原寸大で再現されるなど、実に力の入った展覧会だった。私は大学の友人たちとこれを訪れ、安藤忠雄という建築家がどれほど多くの街や、人の人生を創ってきたかに圧倒されたと同時に、国立新美術館の混雑ぶりも印象に残っている。展覧会の図録を購入するために大勢の人々がその真赤な本を持って長蛇の列を成しているものだから、中国共産党の文化大革命時に毛 沢東語録を掲げる群衆を思い出したものだ(笑)。私はその展覧会の中で、そして例に漏れず買って帰った図録の中で特に憧れたのが、『地中美術館』や『ベネッセハウスミュージアム』など、直島をはじめとする瀬戸内海の島々をまたぐプロジェクトと(直島へは2018年に訪問した)、兵庫県淡路島の『淡路夢舞台』だった。それらはもはや建築というより、ロバート・スミッソンの『スパイラル・ジェティ』(1970)やマイケル・ハイザーの『コンプレックス・シティ』(1972)など、商業主義的なアート界に反発したアーティストたちの中で急速に発展し、1960年代のアメリカのカウンター・カルチャーの一端を担った芸術運動「ランド・アート」(または「アース・ワーク」とも呼ばれる)的超巨大彫刻だと思えたからだ。
資本社会への反発、自然信仰を掲げた「ランド・アート」は、反ベトナムの若者たちの精神とも呼応した。
『淡路夢舞台』
1994年、大阪湾に浮かぶ関西国際空港が開港した。この敷地の埋め立てには言うまでもなく大量の土砂が必要で、その採掘場のひとつが後の『淡路夢舞台』の敷地だった。土砂採掘場の工事によってこの場所は土と緑を山ごと失い、岩盤が露出した急斜面の不毛の地が残ったのみで周辺の海域の生態系へも深刻な影響を与えつつあった。自然の回復が急がれたため、国と県、そして安藤は、建物よりも先に荒れた土地へ苗木を植えることからプロジェクトをスタートした。植物の植栽をはじめて1年、建築工事着工直前の1995年1月に阪神淡路大震災が発生。震源に近かった敷地は再度地質調査が実施され、安藤の建築プランも大きく変更となった。そして2000年3月、当初のプランよりもさらに複雑で幾何学的な、巨大な『淡路夢舞台』がついに完成したのだ。国際会議場、ホテル、植物園や競技場などの機能を持った文化コンプレックスとして、『淡路夢舞台』は周辺地域の復興の象徴としても位置付けられていたようだ。
そして今年3月、私は何でもない平日に思い立って3連休を作り、遂に淡路島に向かった。新幹線を降り新神戸駅から高速バスで明石海峡大橋を渡り約1時間。「淡路夢舞台前」に到着後、早速散歩に出かけたが、私はその規模感に啞然とした。東京ドーム約6個分の敷地には縦に、横に、そして地中に、安藤のトレードマークの滑らかなコンクリートが広がる。都心にも大きな公園はあるが、『淡路夢舞台』はどこを歩いてもコンクリートがついてくるし、思いがけない方向からコンクリートが飛び出してくるから、例えば恐竜や巨人の石化した骨と骨の間をぬって歩いているような感覚だ。それはさながら迷宮のようでもあり、先ほど階段を下ったと思ったら、また元居た上階に戻ってしまう。何度も同じ場所をぐるぐる周ってしまったし、私たち以外の訪問者もみんな敷地内部で道に迷っていた。もしも上空から見てみたら、私たちはマウリッツ・エッシャーのだまし絵、『相対性』(1953)や『上昇と下降』(1960)に配置された滑稽な人間のようだろう。
先に書いた「ランド・アート」の最も要な作品である『スパイラル・ジェッティ』もまた、スミッソンが米ニュージャージー州の工業地帯から掘り出された何トンもの土砂や岩を運んでゆくダンプカーから着想を得たというから、『淡路夢舞台』の出発はやはりそれと限りなく似ている。巨大すぎて美術館に収めること、再現することは不可能だし、この地形に依存しさらには地震という自然災害なしには実現しなかった、「サイト・スペシフィック・アート」なのだ。現在『淡路夢舞台』は想像を上回る緑の回復を見せており、ゆくゆくは安藤の建築、コンクリートはほとんど見えなくなることが想定されている。ダムもそうだが、人工物が自然をコントロールしているように見えて、実は次第に自然に組み込まれていくものにはいつも惹かれてしまう。
『アート山大石可久也美術館』
冒頭で偉そうにお勧め、などと書いたが私はロード・ムーヴィーで卒論を書いた身にも関わらず車の運転ができないので、淡路島の島全体を見て回れたわけではない。旅ではいつもCHEMICAL BROTHERSの『Exit Planet Dust』(1995)のジャケットよろしく、道路脇をひたすらに歩いているのだが、淡路島で歩いた狭範囲で、偶然にも本来の目的地よりもっと素晴らしい場所にたどり着いてしまった。
板に「アート山美術館」と手書きで書かれた看板に従って、尋常ではない急勾配の坂道を息も絶え絶え登っていくと、素敵なヴィラが現れた。『アート山大石可久也美術館』は淡路島出身の洋画家、大石可久也と妻の大石鉦子が地元のボランティアと一緒に自ら山の上の雑木林を切りだし、2004年に開館したギャラリーだ。真白な方舟の本館と、大阪湾を見下ろす丘にはいくつかの小屋や立体作品が点在し、遊歩道が整備されていた。大石可久也は2018年に亡くなるまで、離れの自宅で暮らし(妻の鉦子さんは今でも暮らしているとのこと)、全て手作りのこの空間に自らの絵画や彫刻作品のほか、世界中を旅して集めた人形や陶器、更には古いマッチ箱や石ころといったガラクタの類も大事に展示していた。雑多で、ショーケースの中は一見散らかっているが、天井に吊るされたデンマークのフレンステッド・モビールと同じように、妙に正確なバランスのポイントを持って、タイムレスな部屋が出来上がっていた。スタッフのかたからは「電気は好きに点けてね」と声をかけられたが、その日は天気が良かったので自然光でその空間を楽しむことができた。主に大石鉦子の作品が展示された小さな別館は、より室内外の境がないため作品の経年変化も激しいのだろう、浜で拾ってきたと思われるお世辞にも綺麗とは言えない貝殻で作ったモザイク作品は、驚異的だった。
ついこの間、世田谷美術館で開催されていた「アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド – 建築・デザインの神話」展に行った。アアルト建築はいつか必ず訪れてみたいし、彼ら夫婦のプロダクトはモダンで、世界中のどんな暮らしにもフィットする素晴らしい物だと思える。しかし同時に、完璧なまでに合理的なデザインと空間に、私は一抹の不安を覚えたことも確かだった。いつだったか、カール・ラガーフェルドやポール・スミス、田原総一朗やDOMMUNEの宇川直宏の自宅が、本や書類、レコードなどの文献で溢れて積み上げられ、崩れかけたそれらの中に埋もれる本人たちの写真を見て心底勇気づけられた覚えがある。私も昔から収集癖があるし片付けも苦手だから。そういった意味でも大石夫妻の作り出した空間は完全に理想郷だった。いつまでもここに居座って、天気のいい夏はフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』(1954)のように丘を駆け下りて海で泳げそうだ。多分わたしが黙ってinstagramへ写真を投稿すれば、みんなそこがフランスはコート・ダジュールとも見まごうだろう。ぜひヴァケーションの候補地にしてほしい。
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東京を拠点に活動するエクスペリメンタル / サイケデリック / ノーウェイヴ・バンドBarbican Estateのベース / ヴォーカル。ロック・パーティ「SUPERFUZZ」などでのDJ活動を経て2019年にバンドを結成。2020年3月、1st EP『Barbican Estate』を「Rhyming Slang」よりリリース。9月にはヒロ杉山率いるアート・ユニット「Enlightenment」とのコラボレーションによるMV「Gravity of the Sun」で注目を浴びる。同年10月からシングル3部作『White Jazz』『Obsessed』『The Innocent One』を3ヶ月連続リリース。今年3月19日にLana Del Reyのカヴァー「Venice Bitch」をYouTubeとIGTVで公開。4月9日に「The Innocent One」のMVを公開。
明治学院大学芸術学科卒。主にヨーロッパ映画を研究。好きな作家はヴィム・ヴェンダース。