文・写真 | コバヤシトシマサ
世の中にはとんでもない人がいる。
趣味でギターを弾くのもあり、音楽を聴くときにはギターの演奏に耳が向かいがちになる。そうしてあれやこれや聴くうち、やがて知ることになる。世の中には驚くべき演奏家がいるのを。ギター演奏の良し悪しに関しては、まずは指使いのテクニックがあるが、ことはそれにとどまらない。その音楽がどのようなプロセス経て成されるのか、まったく理解の及ばない作品が存在する。そしてたいていの場合、本当に優れた作品はそれが理論によるものなのか、独創性によるものなのか、判別がつかない。ともかくそうした才が世界には点在している。これはプロ・スポーツや料理人の世界でも同じだろう。
“現代思想”なるものについて、長らくそうした感慨を持ってきた。ジル・ドゥルーズの主著は、今では文庫で読むことができる。初めて手にし、読んだときにはギョッとした。いったい、ここには、なにが書かれているのだ?理解が及ばない。その後、解説書の類をいくつか読み、どうにかドゥルーズの概要くらいは知ることになる。なるほどドゥルーズはこういったことを書いていたのか。へえ。しかしここで謎はさらに深まる。ジル・ドゥルーズの書いたあれらの著作をこのように“解説する”とは、いったいどのような営みなのか?20世紀の後半にフランスで生まれた知の潮流である“現代思想”。難解で読みづらい独特の書物群。その研究を専門とし、原著をフランス語で読み、関連文献を調査して、先行する数々の研究を踏まえたうえで、自らの読解を組み立てていく。そうした仕事が具体的にどのようなプロセスで成されるのか、まったく想像がつかない。世の中にはとんでもない人がいる。
そうした感慨を持つようになって何年が経ったか。驚嘆すべき人文知の先端に、本書はある。千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書)。「人生が変わる哲学」と銘打ち、デリダ / ドゥルーズ / フーコー(とラカン)という現代思想の巨大な山脈について、新書1冊でまとめてしまっている。本書の登場により、本を読む習慣のある人なら誰でもデリダ / ドゥルーズ / フーコーのエッセンスが理解できるようになってしまった。なんということでしょう。抽象的な理論の枠組みをかなり具体的に解説してあるので、本当に“読めて”しまう。現代思想一般について、ここまでの“入門書”はこれまでなかった。書ける人はいたのかもしれない。でも誰も書かなかった。
では、なぜ千葉雅也はこの本を書いたのか?
理由のひとつに、“現代思想”なるものが過小評価される風潮への異議があるだろう。そうした懸念については本書内にも記述がある。
ポストモダンの状態を良しとするポストモダン思想、ポストモダニズムは、「目指すべき正しいものなんてない」「すべては相対的だ」という「相対主義」だとよく言われます。そしてデリダやドゥルーズらがその首領なのだと言われたりする。
相対主義批判 = ポストモダン批判 = 現代思想批判、というわけです。
――千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書)
昨今、現代思想 = ポストモダン思想は、ときに“ポモ”と蔑称される。“どっちもどっち論”にとどまるばかりで、決して決断しない日和見的な“相対主義”として退けられるきらいがある。本書は“二項対立”とその“脱構築”をキーワードにしており、まさしく二項の対立を超えて思考することの重要性を説いているが、それと同時に、そうした態度が“どっちもどっち”の日和見主義“ではない”こと、真に実効的な視点であることを示している。いま、社会や公共についてのどんな問題も「お前はどちらにつくのだ?あいつら側か?おれたち側か?」との友敵理論に終始する現状がある。本書はそうした二項対立の前提をこそ疑うべきだと提案している。「絶対の真実などないのだから何も決断するな」と言っているわけではない。真実や決断とは、その都度“仮固定”されるものであり、そうした“グレーゾーン”にこそが豊かさがあると説く。
そうした異議とはまた別に、本書は先人である浅田 彰 / 東 浩紀両名の仕事を引き継ぎ、乗り越えるという側面も持つと言える。浅田が現代思想を一般読者に向けて(にしては難しいですが……)解説した『構造と力: 記号論を超えて』(1983, 勁草書房)。あるいは東の『存在論的、郵便的: ジャック・デリダについて』(1998, 新潮社)。『存在論的、郵便的』はもともと論文なので、本書とは簡単に比較できないとしても、東がジャック・デリダを明快に論じて見せたその手さばきは、本書の見えない起源となっているはず。あるいは本書と同じく講談社現代新書から出版された東の『動物化するポストモダン』。『動ポモ』は、現代思想的な知をサブカルチャー批評の形式で展開する一般向けの書籍だった。そうした仕事を引き受け、乗り越える意図が、千葉にはあったのではないだろうか。さらにもう一段広げた大衆に向けた人文書を書くことは、そういってよければ千葉による“父殺し”なのかもしれない。そしてそれは大変な成功を収めたということになる。
本書は、現代思想一般についてのこれ以上は要約できないほどの要約であり、よって部分的な内容の紹介にはあまり意味がない……というかうまくできませんでした。興味のあるかたはぜひ読んでみてください。ね。