知ろうとしないなら、価値は生まれない
Photo ©Emilie Elizabeth
古いビデオ映像とカセットテープを使ったライヴ・パフォーマンスで話題を呼んだ前作『Avanti』(The Point Of Departure Recording Company, 2017)のシンプルでモノトーンなイメージと比べ、続く『Volume Massimo』は(1曲目のように地続きになっている部分も残しながら)もっとカラフルで、彼が持つ天性のポップ・センスがより強く発揮されている。名門「Mute Records」のDaniel Millerが「ぜひ、うちから出さないか」と声をかけてきたのも納得の内容だ。Cortiniが“天然の天才”タイプであることに、ますます確信を深めた。
取材・文 | 鈴木喜之 | 2019年9月
――今回の作品が、ベルリンに引っ越して最初に完成させた作品ということになるんでしょうか。
「ベルリンに引っ越してから最初にリリースしたレコードなのは確かだけど、曲作りの大半は引っ越す前に終わっていたんだ。ただ、いつ、どういうかたちでレコードにできるのかは僕にもわかっていなかった。日常的にスタジオに通って音楽を作って、プレイリストに一定のアイディアを集めているから、そうやってアーカイヴした音源が山ほどあって、その集まりをアルバムの形へと発展させていくんだけど、中には、そこで行き詰まって何の結果も出さずに終わるものもあれば、他の音楽を作るきっかけにしたくて作っただけのものもある。そういうのは単なるプロセスの一環として作っているので、作っているものに対して疑問を抱いたり、逆に革新的なものを期待することもなく、ただ音楽を作るのがいい気分になれるとわかってるからやってるだけなんだ……内容とかサウンドは一切関係なくね。とにかく、ベルリンに到着した時点で、すでに自分でもアルバム用のトラックの集まりには納得できていた。ベルリンでやったのは基本的に、その集まりを作品に仕上げていく作業だったわけ。曲順や個々の要素に目を向けて、仕上げに持っていったんだ……ちょうどパズルを組み立てるみたいにね。パズルのピースが全部はまったら、最後にペンキをひと塗りして修正を加えるっていう流れ。パズルにペンキはないか(笑)。その段階で、たいして修正しなくてもOKな曲もあれば、ギターや何かの要素を追加した曲もあったよ。たとえば1曲目の“Amore Amaro”は、『Avanti』の作曲プロセスの中で作ったものだったんだけど、『Avanti』にはうまくハマらなかった。でも今回1曲目に置いてみたら、前作が終わった場所からスタートしてる感じがして、すごくよくてね。家族の会話を録音した素材を使ってることもあって、ある意味リンクしてるんだ。そんな風にしてベルリンでは、作り終えていた全曲を一歩下がって見ることができたし、自分のホーム・スタジオが完成してからは、くつろいだ環境でミックス作業ができたよ。ホームと言っても別に実際の自宅でなくていいんだけど、快適で心地いいベッドルームのような環境で作業するのが好きなんだ。プロフェッショナルな職場環境で感じる苦痛も軽減されるし……もちろんプロ用の機材は使っているけど、散らかり放題の子供部屋で作っているような雰囲気が僕には合ってるんだよね。そのほうがクリエイティヴィティも損なわれないというか。秩序の中よりカオスの中にいるほうが、僕の場合は仕事が進むんだ。実際、作業を始めるまでは、スタジオも綺麗に掃除してパーフェクトな状態に保っているんだけど、作業を始めた途端、ペダルやケーブルが床に散乱してるわ、ケーブルが短すぎてペダルが宙吊りになってるわで……」
――(笑)。
「でもスタジオにいるのは僕と猫だけだから、別に構わないんだ」
――では、ベルリンの制作環境は、次作以降で本格的に反映されてくる、ということになるんですかね。
「うん、でもまあ、いずれにしても音楽は毎日作っている感じなんだ。よし、今日はこういうのを作るぞ!みたいな目標を掲げて、腰を据えて取り組むようなことは滅多にない。ギグを控えていて、リミックスを作らなきゃならないとか、進行中のコラボレーションがあって、そこで定められた“ルール”とか“基準”にフィットするものを作らなきゃならないとかではない限り、とりあえずスタジオに入って気ままに音楽を作っているよ。そういうときはコンピュータの電源を入れすらしないんだ。マルチトラックのデジタル・レコーダーだけ立ち上げたら、録音スイッチを押して、ハードディスクの容量は無限大にあるからずっとそのままの状態のままにしておくんだ。microSDにどんどん保存していって、数日録音し続けたら、例えば旅行やライヴで留守にするとき、SDカードをラップトップに差して一緒に持って行くようにしてる。で、ホテルに着いたらまずズボンを脱ぐ」
――(笑)。
「ラップトップを開いて、作り溜めていた音楽を聴き始めるわけ。作ったことを覚えてさえいないものもあったりするから、面白いよ。すごく自然な流れの中で録音してて、そこからより進化した形に発展させられることもあるけど、それ以外は自然発生的なアイディアとしてそのまま置いておいて、後から他のアイディアと合わせて使う場合もあれば、ずっと変わらずそのままの場合もある。ホワイトノイズが2時間入っているだけのこともあるけど、そのときは2時間分のホワイトノイズを作るのが心地よかったんだ。片や、もっと肉付けされたピースの状態で入ってる場合もある。今作の“La Storia”なんかもそう。Buchlaのモジュラー・シンセサイザーやディレイで遊んでいたら、このメロディが降りてきたから、まずメロディを録音して、次にオクターブアップ・エフェクトをかけたものとベース・ラインを録音して、15分ほどでトラックが完成したんだよ」
――新しいアルバムを聴いて、なんというか“アナログ的な質感”という印象を持ちました。デジタルとアナログの配分とか使い分けといったことを意識したりはしますか?
「僕にとってアナログやデジタルっていうのは……というか、僕の好きな“デジタル”は“アナログ”でもあるんだ。アナログが好きなのは不完全なところで、必ずしも音色やトーンが好きというわけではないんだよね。デジタルもアナログも古いマシンを使っているのは、そのせいなんだ。どれも20年から30年前の時点で可能な限り最高なマシンだったわけで、今の基準で言ったら最高のテクノロジーじゃないのかもしれないし、30年分の経年に加えて、いろんなコンポーネントを乗せてるから、少なくとも僕が持っているマシンの多くは、買った当時のようには動かなくなってる。しかも中には試作品だったマシンもあって、作られた当初からうまく機能していなかったりもするんだ。そういう不完全なマシンの何がそんなに気に入っていて、どういう部分でインスパイアされているかというと、“マシンの多くがある意味、自分の意思を持っている”ってところ。何が作りたいのかわからない状態でプレイし始めても、マシンがちゃんと一定の方向に導いてくれるし、こちらから何かインプットしたときの反応も、最新の機材より意外性が多いんだよ。最新型のマシンは、“頭に浮かんだどんなアイディアでもかたちにしてくれる”とよく言われるけど、そもそもマシンの前に座ったときは頭の中に何のアイディアもなくて、マシンを触るうちに浮かんでくるわけ。僕にとってはマシンがバンドのメンバーみたいなもの。言葉では返事をしないメンバーとでもいうか。でも“ノー”とか“このやりかたはできない、こっちのやりかたしかできない”といったことは表現できるし、僕にとっては生身同然の存在なんだ。だから僕にとっての“アナログ”は、サウンドそのものより、アティテュードやマシンの仕組みを指していて、実際に使っているのはデジタル機器であることも多いんだよ。『Volume Massimo』でも、ウェイヴテーブル・シンセのBuchla 700や、(Sequential Circuits)Prophet VSなんかをよく使ってた。ただ、どれも“魂”はアナログなわけ。すごくアナログな方法で開発されていて、欠陥さえあるけど、逆にそこが僕には魅力で、よりクリエイティヴィティが発揮できるんだ。WaldorfのQuantumみたいに、同じことができる最新型の機材もあるけどね。そういうのは、昔の機材と同じようなインタラクションが期待できる設計になってる。つまり、僕にとってアナログな要素っていうのは確かに重要だけど、求めてるのはアナログ的な“作品デザイン”であって、必ずしもアナログ的な音色ではないんだ」
――なるほど。『Avanti』のツアーでカセットテープを使う手法を経験したことが、その後の創作に反映されたようなところはあったりしますか?
「今回のレコードでは、影響があったとは言えないんじゃないかな。テープはもうやったから次のプラットフォームに進もうっていう気持ちになれた、という意味での影響はあったけどね。実は今回学んだことで、今後に生かしたいと思ってることがひとつあるんだ。以前は『Sonno』(Hospital Productions, 2014)のときも『Risveglio』(Hospital Productions, 2015)のときも『Forse』(Important Records, 2013, 2015)でも『Avanti』でも、2、3年ツアーをやって次のレコードをリリースしたとき……例えば、『Sonno』ではこのセットアップが成功したから『Avanti』のライヴでも使ってみようとか思っても、そううまくはいってくれないんだ。同じように、『Avanti』で4トラックを使ってすごくうまくいったからといって、『Volume Massimo』のライヴで取り入れようとしたところで、絶対にうまくいかないわけ。だから今はもう、そういう試みはやめて、ライヴ・ヴァージョンをレコードとは別の新しい存在として考えるようにしてる。確かに4トラックは、正にレコードとしての『Avanti』サウンドの要になってたけど、それは、“Berlin Atonal”でライヴ・パフォーマンスをすると決めた後でレコードにしたからなんだ。ライヴでは確かにカセットテープの音が独自の味を生み出してくれたからね。だから、ああいう音はもう二度と使わないと言っているわけじゃないけど、『Volume Massimo』の音色の幅は『Avanti』より幅が広いものになってる。『Avanti』では、同じ音色のいろんな色合いや変化を利用してた。どのトラックも、EMS Synthi AKSと4トラックを使っていたからね。でも『Volume Massimo』では使ってる機器の種類がもっと幅広いし、今の僕にはそのほうがずっとしっくりくるんだ。これまでは、スタジオにある機材をひとつの手段として利用することを怖れていた。ギアをありったけ利用しようとするたびに失敗していたから。いつも不安に苛まれて……使い方はわかっているんだけど、いざレコーディングで使ってみると“練習”みたいな音しか出せなくて。“よし、TR-808をドラムで使って、ベースにはSH-101を使って……”みたいに特定のサウンドで知られる機器をどんどん使ってみても、確かに理にはかなってるんだけど、僕の場合、ひとつの機器だけで可能な限りたくさんのパートを作ったほうが、感情を込めることができるんだよね。そこで『Volume Massimo』では、どのピースも最初は核になるひとつの機器だけで書いて、後から他の機器で色を足していくというやりかたで作った。そうすれば“使わなきゃならない”っていう義務感から逃れられる。だから、ギターを使うこともあれば、他のシンセサイザーを使ったり、あるいは同じシンセを別のテイクで使ったりすることもあった。4トラックについても同じで、ひとつの“色”として存在しているんだよ。『Avanti』ではそれが主要な色になっていた……そもそもEMSとテープの2色しか使ってなかったしね。でも今回の、例えば“Amore Amaro”は、同じ食材で変化をつけているというよりは、スープからデザートまで全部揃ったフルコースに近いっていうこと」
――ギターを使った曲も多いということですが、実際どうだったんでしょう?
「ここ数年、ギターをよく弾くようになったのは事実だよ。理由は主にふたつあって。ひとつはNINE INCH NAILSのライヴでベースやギターを弾く機会が増えたこと。ふたつ目は世間では今シンセサイザー、それもアナログ・シンセの一大ルネッサンスが起きていて、どこを見てもシンセだらけでみんなシンセサイザー・ミュージックを作ってるから、僕はギターに戻りたかったということ。ネットを見なきゃ済む話ではあるんだけど、自分の起源であるギターに戻ることができたのはよかったよ。アルバムに関して言えば、バランスをとるのが難しかった。VAN HALENやPaul Gilbertといった1980〜90年代のすごく特殊なギター・プレイを聴いて育っているし、子供の頃は、ギターを弾き始めたときイメージしてた巧いギター・プレイヤー、つまりSteve VaiやJoe Satrianiのように弾けなきゃダメだと思っていたんだ。そのせいで、これまでずっと、ギターをクリエイティヴなツールとして自分の好きなように活用する機会を逃してきたわけ。ギターを使うならここまで巧くなきゃダメだ、あのリフが弾けないなら優れたギター・プレイヤーだとは言えない、っていう思い込みに囚われすぎてね。言うまでもなく自分のせいなんだけど。だから『Volume Massimo』では、ギターの再定義を試みることにした……シンセに対するのと同じように、先入観抜きで自由気ままに接することにしたんだよ。シンセサイザーにそんな風に接することができるのは、変に洗脳されていなかったからで、全くの初心者でマシンの仕組みもわからなかったからなんだよね。子供がおもちゃで遊ぶように楽しめたんだ。でもギターはそういう接しかたをしたことがなくて、スケールとかギター・スクールで教わったことにどうしても戻ってしまう。だからシンセのように簡単にはいかなくて、すべての曲でギターを使おうと考えたり、逆にライヴ・ヴァージョンでギターを弾くだけでいいやと思ったり……最終的には、その中間で落ち着いたよ。全面エレクトロニックというわけでも、全面ギターというわけでもなく、たとえば“Amore Amaro”や“Let Go”、あと“Batticuore”や“Momenti”でもギターをかなりフィーチャーしているけど、たくさん入ってるのはそれだけだ。ちょっとしたリフを1、2回入れてみるっていう使い方もしたけど、そうするのが自分には理にかなっていたからで、しっくりくるなら、そうするのが相応しいんだって、あまり考えすぎないようにしたよ。ギターも他の機材と同じで、フレイヴァのひとつでしかない。おかげで今は、長いこと間違った見かたをしてしまっていた楽器に、一歩近づけた気分なんだ。子供の頃に聴いてたギター・プレイが間違っていたわけじゃなくて、僕のアプローチのしかたが間違っていた。今はギターを、創作のためのひとつのツールとして見られるようになった気がする」
――シンセには、おもちゃみたいな感覚で向き合えたという話ですが、それに関連して、プロフェッショナルなバックグラウンドを持つ他のミュージシャンと交流を持つときに、自分だけちょっとやり方や感覚が違うかも、と感じたりすることはありますか?
「確かに違和感はあるね。でも、“どんなツールだって自分が表現したいことを見出すため、そしてアーティストとして進化・成長するために使うんだ。ギターやシンセの学校が何と言おうが関係ない”っていう重要なポイントをわかっている人たちに対して、苦手意識を感じたことはないよ。自分自身を表現するために探求している人たちだからね。僕が気まずさを感じるのは、学校で教わったことの陰に隠れてしまってる人に接したときだ。ギター・スクールでの経験であれ、大学でエレクトロニック・ミュージックを学んだ経験であれ、そこで得た知識を盾にして、その知識自体に価値があると勘違いしてるような人たちさ。別に軽蔑するつもりは全然なくて、知識に一定の価値があるのはもちろんなんだけど、アーティストとしての自分の本質を見出そうとするときには、その知識に価値があるかどうかは別の話ってこと。他人が作ったものを評価したり再現したりするだけで、それを使って自分が表現すべきことは何かを知ろうとしないなら、そこには大した価値は生まれないと思う。自分自身にとって新しいことをやっているという事実があって初めて、何かを面白いと思えるし、ギターや楽器を喜んで手に取ることができる。そうでなきゃそれをレコードにして他人に聴かせるなんて、できないよ。自分自身がハッピーになれないことをやる理由なんてどこにもないし、それなら他の仕事に就いたほうがマシ。情熱の無駄遣いになってしまうから。僕自身、音楽の勉強のために渡米したけど、結局、自分はギターがやりたくないんだと気づいただけで終わったよ。もともとは、GIT(Guitar Institute of Technology / Musicians Instituteの前身)を卒業したらイタリアに戻ってギターを教えるつもりだったんだ。GITに入ってからは、希望通りあらゆるジャンルの音楽を勉強できて、それはそれで素晴らしかったんだけど、空き時間になるとソロ弾きの練習はせずに、PowerBookでエレクトロニックな要素を使ってレコーディングしてる自分がそこにいたわけ。ギターを使うこともあれば、使わないこともあった。そんな僕を見たGITの先生たちが、ギターだけじゃなくてアレンジに活かせるような課題を出してくれるようになったのは、ラッキーだった。最終的に金と年月をギターに費やしたけど、ギターは自分にとって運命の楽器じゃないんだと気づいたというか、ほぼ意識的にそう結論づけたんだ。実際、運命の楽器なんてものは存在しなくて、存在するのは僕自身だけ、なんだけどね。“僕”が楽器、手段なんだ。だからどんな作品でも聞こえてくる“声(voice)”はいつも同じだし、メッセージも僕自身のものなんだけど、作品によって唯一変わるのが“文法”……使っている機器によって決まるからだよ。ずっと遡ってblindoldfreakのレコードを聴いても、あるいはMODWHEELMOODの曲でも、Sonoioでも、『Forse』シリーズでも、『Sonno』や『Risveglio』でも、僕の音楽を熟知してくれている人が聴けば、どれも僕だとわかってもらえると思う。違うのは使っている機器だけ。それって言語の違いに似ているかも。例えばフランス語だと“Fuck off”と言われても甘い言葉を囁かれてるように聞こえるけど、ドイツ語だと“I love you”も“Fuck off”って言ってるように聞こえるのと同じで」
――(笑)。
「ドイツ語の発音が険しいからだよ。楽器も同じで、クラシック・ギターで弾くAと、フルスタックのMarshallにつないでGibsonのLes Paulで鳴らすAは、同じコードで押さえ方もピックも何もかも同じなのに、出てくる音は全くの別物で、全く違うエモーションを引き起こす。でも、それこそが楽器の役割であって、メッセージを伝えるために使う言語でしかないんだ。そしてメッセージの主は、楽器と共に時間を過ごしてきたアーティストなわけ……それがどんな楽器であってもね。僕の場合、ある特定の楽器と長期間いっしょに過ごして、言いかたは悪いけど……飽きたら、次の楽器に移行している感じで、また以前の楽器に戻るかもしれないし、戻らないかもしれないけど、何も排除するつもりはないんだ。だから、次はもっと髭を伸ばしてCat Stevensみたいなアコースティック・ギターのレコードを作ってるかもしれないしね!」
――それも聴いてみたい(笑)。
「とにかく“これが僕のやり方だ”っていうのは、もうやめたんだ。レッテルを貼るのは好きじゃないし。『Forse』を出した頃は、Buchlaの機材が好きというだけで、みんなから“Buchlaのあいつ”って言われたけど、それも間違いでね。確かにDon Buchlaが作ったシンセは大好きだけど、Rolandのギアを使ったこともあるし、ギターも使ってきたし、EMSのギアも使ってきた。どんな楽器でも、僕に語りかけてくれるものじゃなきゃダメで、楽器自体はそれほど重要じゃないんだ。まあ、ギタリストを目指してた14歳の頃は、Steve Vaiが使ってるのを見て自分もIbanezのギターを使いたいと思ったし、Eric ClaptonがFenderを使っているのを見て自分もTelecasterを買いたいと思ったのは事実で、楽器に重点を置きたくなるのは理解できるけど、そうすると大抵過ちを犯してしまう(笑)」
――ちなみに、新しいシンセサイザーを手に入れたとき、取り扱い説明書などにはあまり目を通さないタイプですか?
「最初は見ないことが多いね。僕は、楽器と通じ合えるかどうかはユーザー・インターフェースと大きく関係してると思っていて、だから何度もマニュアルを見ないと操作方法がわからないような楽器は、あっという間に飽きてしまう。そういう楽器は大抵、ミュージシャンやプレイヤーじゃなくエンジニアの視点で設計されているからだね。ただ、僕が持ってるBuchlaの初期デジタル機器の中には、“メニュー”というUIが導入される前に作られたものがいくつかあって、それだと小さなターミナルがあるだけでマウスがないから、キーでカーソルを操作しなきゃならない……すごく扱い辛いんだけど、そういう楽器だからこそ、まるで未開の惑星に降り立った宇宙飛行士の気分になれるのも事実なんだ。それを使ってレコーディングした音楽なんて、ほとんど存在しないわけだからね。だからそういうプロセスは結構気に入ってるし、たとえサウンド的に特筆すべき要素が何もなくても、メニューを探りながら自分なりに機能を解明していく過程が僕にはとてもエキサイティングに感じられるんだよ。同じことが楽器全般に関しても言える。ある楽器を使ってクリエイトするプロセスは、そこから生まれるサウンドと同じくらい重要だと僕は思ってるし、そういう本来の目的のために、サウンド的には普通と思われかねない楽器を使っていろんな作品を作ってきたんだ。僕にはサウンドは二の次だから。それを使っているときに感情を掻き立てられる限り、どんなサウンドが生まれるかは重要じゃないんだよね」
■ 2017年9月27日(金)発売
Alessandro Cortini
『Volume Massimo』
TRCP-247 2,300円 + 税
[収録曲]
01. Amore Amaro
02. Let Go
03. Amaro Amore
04. Batticuore
05. Momenti
06. La Storia
07. Sabbia
08. Dormi
09. Sabbia (Pulita) *
* Bonus Track