「この世ならざるもの」というのは言い得て妙な表現だなと思う。
この世のものでは無い、知り得ない部分、そこは確かだという一種開き直りとも言えるその懐の深さには毎回驚く。
以上、自分以外の全てのものに対する皮肉である。
見える景色はいつだって霞んでいた。
光は伸び視界を曖昧にさせ、暗くなきゃ眠れないのに瞼を閉じてもチラつくような、そんな鬱陶しい幻覚をいつでも私に見せていた。
「まだ残ってんの?」
そう隣で発した彼の声に私は一瞬にして普通の世界に戻ってきた。
シュン、と音をさせながら消えた光の束。
「数時間前だよ。残ってるわけある?」
つまんねえから海に行こうと、数時間前彼が言った。
つまんねえことに関しては120%同意なので、私は二つ返事で身支度をした。
彼は免許を持っていない。
海に行く、イコール、私の力量にかかっているのだ。
心身ともに。私の。
そう、数時間前、私は酒を飲んだ。割と飲んだ。
けど私の意識にはそんなもの一切関与してこず、相変わらずつまんねえなめんどくせえな寝ようかな、と思っていた最中の彼の誘いであった。
非日常というのはいつでも良いものである。
霞む視界というのは生きる上では便利である。物理的に。
心身ともに。私の。
見たいものも見たくないものも平等に見えづらいのだから、母数が多い方が見えづらいものが多いのは確かで、それは圧倒的に後者だからだ。
見えづらいものは見なくていいのである。多分そう思う。
「残ってた方がよかったんじゃない」
「何が」
「酒が」
「なるほど」
酒が じゃねえんだ正しくはアルコールだ馬鹿野郎。
見えづらいなんてのは視力に関与するものであり、人体に連携するものであり、人体に影響を及ぼすものは何かというと、そうだ物質だ。なんか六角形と直線で結ばれた集合体の塊だ。
人体の60%は水だという。H2Oだ。六角形にもなれていない。三角形がいいところだ。サインコサインタンジェントか馬鹿か殺すぞ。
「私実は飲酒運転が好きなんだよね」
そういうと彼は珍しく目を丸くした。驚いているらしい。
「どういうこと?」
「そういうこと」
「どういうこと?」
「見えづらい道路を手探りで制御できないスピードで走っていくのが人生に似ているからです!」
彼は爆笑した。日本語的に爆笑って一人じゃ成り立たないらしいと聞いたことあるけど言葉なんてのは他者にニュアンスが伝わればそれで役目を果たしていると思う。ニュアンス。
ニュアンスとは。
雰囲気か?
「人生が好きなんだ?」
それは違います。どっちかっていうと嫌いです。
けど人生を擬似体験できるという意味でいえば汎用性高くて便利で好きです。
「likeの方向で好きですね」
珍しく嘘をついた。人生が好きだったことなんて一度もない。
けれども人生をどうにか歩んでいる私のことは私は結構好きである。
飲酒運転と同じくらい好きである。
思い立って立ち上がって岩場を歩いてみた。思ったより履いていたスニーカーが地面に吸い付いてスイスイ奥まで行ける。
奥に着いたら岩場にびっしりグロテスクな貝類がこびりついていて私はその健気さに思わず心をやられてしまって、キモいのに笑えないというやるせなさで、もうどうしようもなくなって、白に灰色を少し混ぜた空を仰ぐしかなくなった。
中学生のときに習った情景描写というやつ。物語の天気は主人公の感情を表すというやつ。
主人公って誰だ?
「飽きたから」
気づいたら彼がすぐ後ろにいた。なるほど彼のスニーカーも地面に吸い付くタイプだったらしい。
「帰ろっか」
どこにだ。
そもそも私は、どこに、どうやって、帰ったらいいんだ?
「うん。帰ろっか」
私は再び足を地面に吸い付かせながら元来た道を戻る。
さっきまでいた貝やらウミウシやらなんやらはもう跡形もない。
水面に映るのは私たちの影だけである。
そして私の前に立ちはだかるのは西日のおかげで作り出された私の影だけである。
「ところでだ」
彼が後ろから声を発した。
今更なんやねん。
「何?」
「どうやって帰るの?」
「どうって。私が運転するよ?」
はあ、と彼はため息をついた。まるで最初から知っていたみたいに。
「君免許持ってないでしょ?」
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