Review | 「白井晟一 入門」


文・撮影 | ミリ (Barbican Estate)

 白井晟一という建築家を知っているだろうか。白井の代表建築のひとつ『渋谷区立松涛美術館』では現在、展覧会「白井晟一 入門」が開催中だ(展覧会は2部構成で、第1部「白井晟一クロニクル」は12月12日まで、第2部は2022年1月4日から1月30日まで)。私は自称建築ファンだが、白井の存在を知ったのは比較的最近のことで、日本の近代建築、モダンデザインの文脈でもこれまで意外と白井の名前には出会わなかったように思うから、彼の作品郡や生い立ちは全く知らず、今回の展覧会で文字通り“入門”させてもらったところだ。

 白井は1905年京都に生まれ、代々銅の豪商であった実家が傾き、父が若くして死去したことを理由に12歳で姉の嫁ぎ先である日本画家、近藤浩一のもとに身を寄せる。20歳年上の義兄であり偉大なアーティストの近藤が父親代わりとなって、白井は青山学院中等部、京都高等工芸学校を卒業後、ドイツのハイデルベルク大学に留学、その後ベルリン大学に移籍する。ヨーロッパ時代の白井の情報はごく限られるが、彼は「哲学科美術史」を専攻しており、ゴシック建築など多少の建築の知識を得ていても、専門的に学んだことはなかった。帰国後に独学を重ね、建築家としての道を歩み始めたのは30歳頃だった。白井が“哲学の建築家”と称されるのはそのことも理由となっている。今回は私が日頃からよく訪れ、親しみのあるふたつの後期白井建築について書いていきたい。

| 『ノアビル』1974

Photo ©ミリ
割れ肌煉瓦の基壇に埋め込まれた「ノア地蔵」。かつて日本の村や峠の入り口には地蔵が祀られていた事に因んだものだというが、顔に彫られた“N”の文字の他、よく見るとその下にも謎の象形文字のようなものもあり(NOA SUM……と読める?)真相は謎である。アーチ内部の黒御影石は極端に磨かれ、冬の澄んだ空をみごとに映すまでだ。

 東京、麻布台の飯倉交差点にある、ひと際異様な漆黒の楕円。というとその姿を思い浮かべられる人も多いのではないか。『ノアビル』は白井晟一の後期の代表作で謎めいた塔だ。何年も前、私は日比谷線神谷町駅降りて麻布台への坂道を登って行った頂上でこの『ノアビル』を見て、なにか神殿のようなものに辿り着いてしまった気がして、“ノア”の脅威に硬直してしまったことを鮮明に覚えている。これが白井晟一の名前を知るきっかけだったが、まさか『ノアビル』が普通のオフィスビルだなんて、そのときは想像もしなかった(このAVE | CORNER PRINTINGの連載当初から使用しているプロフィール写真は『ノアビル』前で撮影したもの)。

 赤い割れ肌煉瓦で覆われた基壇の上に、素材としては対照的なメタリックな硫化銅パネルの楕円の建造物が15階まで伸びている。階数で言うと3階までの煉瓦の基壇部分にめいっぱい設けられた細長いアーチ状の入り口は、私は世代的にどうしてもハリー・ポッターのダンブルドア校長先生の部屋を想像してしまうのだが、先にも述べたようにさながら古代の神殿のような形相で、その曲線と、アーチ内側で鏡面ほどの光沢を持った黒御影石にはいつも身震いしてしまう。アーチには扉も柵もなく、夜間でも公道に開かれた入り口は、オフィス、テナントビルとしては非常に稀な例である。白井は建築とは不特定多数の市民が所有するべきものであるとし、個人的な権威の象徴である商業ビルにも公共性、街のシンボルとなるようなアイデンティティを与えることに使命感を持っていたようだ。

 実はこの煉瓦部分に何者かの胸像が埋め込まれており、これは通称「ノア地蔵」というそうだが、その顔目や鼻はなく“N”の文字が刻まれている。『ノアビル』という名称、そしてこの彫像の“N”は、クライアントのイニシャルがNであったことが表向きの理由だが、“哲学の建築家”白井の、より壮大な寓意があるのではないか。『ノアビル』は、旧約聖書のノアの方舟が立ち上がった様に見えると同時に、その名前、そして巨大さから私は、同じく旧約聖書の中で神に近づこうとした愚かなノアの子孫たちによるバベルの塔をさえ想像してしまう。

 この麻布台の交差点を中心とした周囲には、『ノアビル』の他にフリーメイソンの日本グランドロッジのある「東京メソニックセンター」、光り輝くステンレスで覆われたこれまた異様に巨大な宗教法人霊友会の「釈迦殿」、ロシア大使館、極めつけに東京タワーがある。私はこの場所を“思想の坩堝”と呼んでいるのだが(笑)、東京のどこよりもパワーに満ちた交差点のゲートであり圧倒的モニュメントが『ノアビル』なのだ。

| 『渋谷区立松涛美術館』1980
Photo ©ミリ


渋谷区制作の「松涛美術館」のビデオ。内部の構造が良く分かるだけでなく、現在は新型コロナウイスの影響で使用が制限されているバルセロナ・チェアなど、白井自身が選定した家具類を確認することができる。

 渋谷区松濤の超高級住宅街の中、元土木事務所の跡地に東京では2番目の区立美術館として1981年に開館したのが『渋谷区立松涛美術館』だ。長年渋谷で遊んできたが、渋谷の文化人たち、松涛に根差す人にとって『松涛美術館』こそ、本当のプライドのように私は感じている。美術館としては狭小な敷地の他、住宅街故に高層の建物を作れず窓も制限されたが、地上2階、地下2階の4層の中心を『ノアビル』のシャフトと同じ形、大きな楕円形の吹き抜けが貫いてどこにいても明るく、各階を繋ぐ同じく楕円形の螺旋階段室がより複雑な構造を生み出している。白井が「紅雲石」と名付けた石材を積み上げた要塞のような正門からは想像できない、開放的で安らげる空間だ。現在はメインの展示室のひとつとして使用されているが、2Fの「サロン・ミューゼ」と呼ばれるバーガンディのヴェルヴェットの壁が贅沢な部屋には、かつて喫茶スペースがあり、芸術家とその愛好家たちが現在でも使用されている革張りのソファにどっぷりと座り、おそらくたばこも吸えたのだろうが、熱い議論を交わしたその体温を今も感じられるような気がする。

Photo ©ミリ
鏡やテーブルランプの他白井は古今東西の民芸品や、アンティーク、キリスト教美術品を室内装飾に取り入れた。随所に設置された立て看板はサーリネンのチューリップ・チェアのようなスペーシーなデザインで、これも白井自身によるものか。


アンビルトでありながら、白井の代表作のひとつである『原爆堂計画』。『松涛美術館』はこの計画の圧縮版のようにも思え、白井の理想をようやく現実化できたものだ。

 1955年、丸木位里・俊夫妻による連作『原爆の図』(1950~1982)を常設展示する美術館の建設構想を知った白井は、その出資者も建設地も決まっていない中、完全に自発的に『原爆堂計画』(1955)を発表している。これはアンビルトの建築でありながら、白井の代表作である不思議な例だ。55年以前の白井の建築群はどことなく平面的で、日本の長屋の趣が多い印象であったが、この年を境に何かが吹っ切れたかのようで、多くは1920年代にヨーロッパで発生したモダンデザインの諸派を、自由に構成しているように思え、『松涛美術館』は『原爆堂計画』での理想が現実となった例と言える。画家ピート・モンドリアンの絵を立体化した直方体の組み合わせである「デ・スティル」の建築を基軸に、それを継承したドイツ「バウハウス」の円や曲線を含む幾何学的美学が取り入れられている。デ・スティルやバウハウスの建築の仕上げは白が中心であるのに対し、白井の建築には「ドイツ表現派」的な煉瓦や石などの自然素材への執念も色濃くある。実際白井が留学後、熱心に独学したものの中には、このドイツ表現派から影響を受けた日本の最初の建築運動「分離派建築会」が挙げられるそうだ。

 さらに直接的ではないものの、白井自身が選定したという『松涛美術館』内の調度品や家具、ギャラリーの柵と吹き抜けブリッジに施されたエンブレム、そして建物中心にあって循環し続ける噴水には、19世紀末のアール・ヌーヴォーにも通ずる動植物の有機性を感じるのだ。

 白井晟一という人物にはまだまだ謎が多いものの、その一筋縄ではいかない建築群と、室内装飾や本の装丁などの細部に至るまで、圧倒的な拘りと美意識の人であることが見えてきた。今回紹介した東京都内のふたつの後期作品には類似する要素も発見でき、彼を知ることのおもしろさを感じている。松涛美術館では来年1月4日(火)より「白井晟一 入門」の第2部「Back to 1981 建物公開」が始まるが、展示も全て入れ替わるようなので大変楽しみだ。

Photo ©ミリ
白井がデザインした『ノアビル』(左)と『松涛美術館』(右)のブラケットライトは内部鏡面とフレームから漏れ出る大胆な影が共通している。ノアビルの方にはここにも大きな“N”マークが。
Photo ©ミリ
戦後白井は「中央公論社」(現中央公論新社)の本の装丁の仕事も多く手がけており、今まで気に留めたことがなかったが、私が持っている中公文庫本のマーク、エンブレムも白井によるもので驚いた。もちろんノアビルのフォントも彼自身によるもので、Aはギリシャ文字のΛ(ラムダ)になっているなど、洒落ている。

渋谷区立松濤美術館 開館40周年記念
白井晟一 入門

| 第1部 白井晟一クロニクル
2021年10月23日(土)-12月12日(日)
| 第2部 Back to 1981 建物公開
2022年1月4日(火)-30日(日)

https://shoto-museum.jp/exhibitions/194sirai/

東京 渋谷 渋谷区立松濤美術館
〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14
10:00-18:00
月曜(1月10日を除く), 1月11日(火)休館

※ 新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、土・日曜日、祝日、および最終週(第1部 12月7日-12月12日、第2部 1月25日-1月30日)は日時指定制を予定。
入館料 | 一般 1,000円(800円) / 大学生 800円(640円) / 高校生・60歳以上 500円(400円) / 小中学生 100円(80円)
※ ()内は渋谷区民の入館料
※ 土・日曜日、祝休日は小中学生無料
※ 毎週金曜日は渋谷区民無料 
※ 障がい者及び付添の方1名は無料
※ リピーター割引: 観覧日翌日以降の本展会期中、有料の入館券の半券と引き換えに、通常料金から2割引きでご入館できます。

ミリ Miri
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ミリ (Barbican Estate)東京を拠点に活動するエクスペリメンタル / サイケデリック / ノーウェイヴ・バンドBarbican Estateのベース / ヴォーカル。ロック・パーティ「SUPERFUZZ」などでのDJ活動を経て2019年にバンドを結成。2020年3月、1st EP『Barbican Estate』を「Rhyming Slang」よりリリース。9月にはヒロ杉山率いるアート・ユニット「Enlightenment」とのコラボレーションによるMV「Gravity of the Sun」で注目を浴びる。同年10月からシングル3部作『White Jazz』『Obsessed』『The Innocent One』を3ヶ月連続リリース。今年3月にLana Del Reyのカヴァー「Venice Bitch」をYouTubeとIGTVで公開。4月9日に「The Innocent One」のMVを公開。9ヶ月ぶりのシングル『The Divine Image』を9月22日にリリース。

明治学院大学芸術学科卒。主にヨーロッパ映画を研究。好きな作家はヴィム・ヴェンダース。