Review | 小倉拓也『〈自閉〉の哲学 カオスな世界を生き抜く力』 | それでもひとりでいる力とは


文・写真 | コバヤシトシマサ

 最近なんだか忙しない心持ちで生活している。こうも暇な暇人がなぜ忙しない心持ちになるのだろうか、と考えあぐねていたところ、たまたま本書のタイトルと帯の文句を目にし、ピンとくるものがあってすぐに入手した。小倉拓也『〈自閉〉の哲学 カオスな世界を生き抜く力』(2026, 講談社選書メチエ)。帯の文句には「同じでいる力」――それこそが、この世界で生きる技法とある。目まぐるしいスピードで情報が交錯し、古い慣習に囚われることなく常にアップデートせよとのメッセージに溢れる現在。そんな忙しない状況に辟易していたところだったので、帯の文句にある同じでいる力というフレーズが、ぐっと間近に迫ってきた。

 本書は〈自閉〉の哲学を展開している。ここでいう〈自閉〉とは、自閉症のそれのこと。近年では「発達障害」の社会的な前景化、とりわけ「自閉症」への注目とともに、哲学、とりわけ現代思想において大きな関心を集めてきた(p6)という“自閉”について、それを医学的に解説するのではなく、哲学的に分析することで、その可能性を追求している。ドゥルーズ、ラカン、無人島といった人文読みにはおなじみのキラーワード(?)を横断しつつも、しかし本書はそれらを安易にパッチワークして“自閉”を飾り立てるものではない。“自閉”の肯定的な力を探るため、過去の人文知を援用しながら、どうにかその可能性を開こうとしている。

〈自閉〉をめぐって、それが何を欠いているかではなく、何を行っているかについて、哲学的に考えていく。
――小倉拓也『〈自閉〉の哲学』2026, 講談社選書メチエ p8

 しかしそもそも自閉症とはなんだろう。本書はその定義に際して、アメリカ精神医学会が刊行する診断・統計マニュアル(『DSM-5-TR』)にある「自閉スペクトラム症」の項を参照し、自閉症に特徴的な行動を挙げている。中でも要点となるのは常同的、反復的な行動同一性への固着ルーティーンへのこだわりだろうか。自閉症のこうした傾向が、いったい何を成しているのかが、本書のテーマになる。著者はこれらの“自閉”的な行為を、ドゥルーズとガタリが『千のプラトー』(1980)で提唱した“リトルネロ”という概念に結び付けている。リトルネロとは、暗闇を行く子供が闇の恐怖をかわすため、おなじみの歌を口ずさむこと。暗闇という不確かな場所で、それでもいつもの歌を繰り返し歌うことで、子供は自らのテリトリーを生み出しているというのがドゥルーズとガタリの見立てであり、本書もそれを踏襲している。

いつものあの歌を歌うこと、つまり常同的、反復的な行為は溶け込んだり埋没したりすることのないある際立ちをつくり出し、差異の皆無に対しては最小限の差異を、差異の過剰に対しては最小限の同一性を生み出す。
――小倉拓也『〈自閉〉の哲学』2026, 講談社選書メチエ p101

 なるほど。最小限の差異と、最小限の同一性か。凪いだ海には少しの波風を立たせ、荒れ狂う海には少しの安息所を作る。このリトルネロという概念が本書を貫く屋台骨になっており、これをガイドにして本書は旅を続ける。ところでドゥルーズとガタリには『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』(1972)という共著があり、そこでふたりはフロイトおよびラカンによる精神分析を徹底的に批判したのだった。精神分析はエディプス・コンプレックスを経た神経症者を特権的に扱いながら、一方でエディプスの通過儀礼を経ない者を分裂症(現在の統合失調症)と定義し、周縁へと追いやる。そうした弁別に反論するため、『アンチ・オイディプス』はあえて分裂症を称揚し、精神分析ならぬ分裂分析こそが必要だと提言したのだった。今考えてもこれはかなりの逆張りなわけだけれども、その経緯を踏まえるなら、本書『〈自閉〉の哲学』は精神分析でも分裂分析でもない、“自閉”分析を目指すものだと言える。

Photo ©コバヤシトシマサ

 ところで本書が展開する〈自閉〉分析は、その対象を自閉症に限ったものではない。本書は現在に特徴的な社会の様態を、社会学者アンソニー・ギデンスに倣いハイモダニティであると指摘する。ざっくり言えば、モダニズム(= 近代)以前の社会では、人々は地域の共同体やその伝統によってアイデンティティを確保していたが、モダニズムの到来により、人々は抽象的なシステムにその拠り所をシフトしていった(ここで言う“抽象的なシステム”とは、例えば貨幣システム)。こうしたモダニズムがさらに進み、抽象的システムが徹底されたのが現在のハイモダニティであると。そうした社会において人々は前後左右不覚になっていると著者は指摘する。そうした局面においては、わたしがわたしであることの根拠、つまり自己同一性の確保が困難になる。そしてそうした事態においては“自閉”的な所作が、つまり反復的な行動や、ルーティーンの順守が、自己同一性を繋ぎ止める役割を果たす。それはつまり同じでいる力でもある。

 社会は変化を続けるのだから、わたしたちの価値観や基準もまた、その変化に柔軟に対応する必要がある。様々な情報が行き交う中、それらがフェイクなのか事実なのかを見極めつつ、社会に適応しつづける。そうした営みが社会をより良いものに改善するのだとして、しかし例えば度々指摘されるように、こうした構造が実は極めて新自由主義的なのも事実であり、やもするとそこでは人は資本の論理に絡め取られてしまう。物事の善し悪しをゼロか100かで判定することはできないとしても、本書の議論を踏まえるなら、柔軟に対応しないこと、つまり同じであることにも、一定の価値を認めるべきではないだろうか。

 リトルネロという概念を巡って展開する本書の“自閉”の探求は、その最終部において、リトルネロ概念の批判的な検討を開始する。批判の対象となるのはドゥルーズとガタリだ。詳しくは本書を当たってほしいのだけれども、焦点となるのは、リトルネロがテリトリーを生み出すための“機能”に過ぎないのか、それとも音楽という“表現”なのか。ドゥルーズとガタリは後者に力点を置いており、それこそがリトルネロの到達点なのだと仕向けているが、著者はそこに批判の矢を向ける。

それは巧妙に隠され、粉飾された、ドゥルーズとガタリの「正常」イデオロギーだと言わなければならない。
――小倉拓也『〈自閉〉の哲学』2026, 講談社選書メチエ p111

 著者は交流に開かれることを前提としない(p112)、芸術としての音楽に至ることを前提としない(p112)、そのようなリトルネロを肯定しようとする。ひとりぶつぶつ口ずさむ歌は、音楽でなくてもよい。つまり自分以外の誰かや、あるいは社会にとって、なんらか意義のあるものでなくてもよいと。表現へと到達することのない、単に“暗記して憶えられた”ひととおりの反復としてのリトルネロを、それとして肯定しようとする著者の試みがどのような地平へと至るのかは、ぜひ本書を参照されたい。その上で、著者自身の個人的経験にも及ぶその結末まで通読した読者として、どうしても頭を離れない問いがある。ひとりの個人にとっての“自閉”の意義は、本書によって汲み取ることができる。たしかにそう思う。しかし社会にとっての意義は本当に不要だろうか。社会なんて大きな主語を避けていうなら、個人が個人によってなんらかの充足を得るとして、しかしそれだけで本当に十分だろうか。リトルネロをそれでもひとりでいる力(p37)だとする著者は、一方で、“自閉”が“それでも”他者との何らかの関係を構築するのだ(p133)とも述べている。加えて“自閉”とは「社会性/非社会性」の区別を問い直すものである(p133)とも。自閉と社会との関連を巡ってのこれらの言葉が、まだうまく咀嚼できないまま、頭の中に残っている。

 本書には常数としての自閉症という言葉が紹介されている。わたしたちは誰しも一定程度には自閉症であると。こんにちはとか、さようならとか、丸暗記した定型文を唐突に投げかけることで、わたしたちは他者との関係を始める。この丸暗記した定型文というのは、たしかに表現でも芸術でもない。

Photo ©コバヤシトシマサ

■ 2026年3月11日(水)発売
小倉拓也
『〈自閉〉の哲学 カオスな世界を生き抜く力』

講談社選書メチエ | 1,700円 + 税
四六判 | 168頁
ISBN 978-4-06-543117-7

「同じでいる力」――それこそが、カオスな世界で生きる技法。
困難な時代の希望の在処を示す、新しい人間の哲学!

〈自閉〉の力、すなわち「同じでいる力」・「反復する力」。モノや情報が氾濫し、目まぐるしく転変し続ける世界に無防備でさらされながら、それでも臨機応変・当意即妙な応答を要求される時代に、暫定的かつ局所的なテリトリーを構築し、自己および世界との関係を構成していくその力は、それぞれの困難を生きる私たちがそれぞれの仕方で実践すべき生存の技法ではないか――。
病理や障害を欠如として語るのでも、美化するのでもない、〈自閉〉の力への信に貫かれた、気鋭の哲学者による新境地。

目次
はじめに いまを生き抜くカナリア
第1章 現代の生の様態としての〈現前〉
第2章 無人島と他者なき世界
第3章 流れない時間
第4章 リトルネロ――テリトリーの構築と自己の構成
第5章 可能的なものの技法――非音楽的な建築術
おわりに それぞれの〈現前〉のなかで
あとがき

Photo ©コバヤシトシマサコバヤシトシマサ Toshimasa Kobayashi
Instragram | Tumblr | Twitter

会社員(システムエンジニア)。