Column「思い出すと思い出す」


文・撮影 | 波田野州平

賭する人――山塚さんの場合

 ゴールデンウィークが明けて、多くの人たちが重そうな足取りで電車に乗り込んでいます。私は満員電車とは反対に進む無料送迎バスに揺られて、立川競輪場を目指しました。初夏の陽気だったこの数日とは打って変わって、小雨まじりの天候が、より憂鬱な月曜を演出しています。しかし競輪場にいる人たちにはそんなことは関係ないようで、みんな屋内モニターと券売機の間を、せっせと勤勉に往復しています。
 レースが始まると、蛍光オレンジ色のウィンドブレーカーを着たおじさんは、息を呑んでモニターを見つめています。ラスト1周を知らせるジャンと呼ばれる鐘が鳴ると、全身に力を込めてゴールラインを睨みつけます。右手に持っている焼き芋が握りつぶされます。そして予想が外れたのがわかると、顔をしかめて指の間から押し潰された芋にかぶりつきます。

 レースの間中、モニターの最前列で怒号を上げている男がいます。着順がわかると大きな声で不平不満を撒き散らします。その男を見ながら、「着順に文句言うたって、そうなったもんはしゃあないやろ」とひとりごちたのが山塚さんでした。

 「今日は雨やから、仕事休みやねん」と言う山塚さんは、74歳になる今でも現役の型枠大工として働いています。「せやから毎日はこうへんよ。仕事休んだり、借金してまで来たりせえへん」と言って、ポケットから千円札を取り出します。「使うのも、1日2万までって決めてんねん」と残りのお札を数えます。

 山塚さんの父親は、福岡にある明治鉱業の平山炭鉱で働いていました。山塚さんが中学を卒業する頃、父親は体を壊し他界します。やむをえず社宅を出ることになった母と息子は、大阪の親戚のもとへ身を寄せることになりました。
 福岡から大阪へ、東への最初の移動でした。
 中学を卒業した山塚さんは、靴底を作る会社に就職します。見習いとして過ごした日々の中で、同僚に誘われて行った住之江競輪場で競輪と出会いました。

 「煮込みすぎて溶けちゃったの」というどろどろになったモツ煮込みを、食堂のおばちゃんがタダでくれます。「山塚さん、一杯どうですか?」と聞くと、「酒は飲まれへん」と答える山塚さん。お酒を飲まない山塚さんは、ここへも車で来ています。立川だけでなく、京王閣、川崎、平塚や小田原、時には伊東温泉競輪場まで、奥さんとふたりで旅行を兼ねてレースを見に行くこともあるそうです。
 その奥さんは、最近認知症が出始めて、週の4日は介護施設に通っています。だから今日はひとりでのんびり遊んでいるのだということでした。

 隣のテーブルでは、老夫婦が一杯やっています。出走表とにらめっこする旦那の帽子を取って、乱れた髪の毛をクシでなで付ける妻。髪の毛が、左側から禿げ上がった中央を越えて右側へ見事に橋渡しされるその間、微動だにせず予想を続ける旦那。妻がクシをしまい、帽子をかぶせるまでの淀みのない一連の動作が終わると、旦那は立ち上がり券売機へと歩き出します。

 「昔の競輪場にはコーチ屋いうのがおってな、おう山ちゃん、って話しかけてくるんや」山塚さんと仲間の会話を聞いていたのでしょう、その男は山塚さんの知り合いを装って近づいてきたと言います。「田中か?なんて言うたら、おう田中や!って、あれは向こうの思う壷やったな」。田中と名乗る男は、懐から40万円ほど取り出して、「ほら、見てみ。今日はようけついとるわ。山ちゃんも俺の言う通りに買うてみ」と勧めてきたと言います。山塚さんは持っているお金を全部つぎ込んで、男の予想通りの車券を買いました。見事に的中すると、約束通り配当金を男と山分けしました。そしてまたそのお金を次のレースに全部つぎ込んで、男が予想した車券を買います。すると今度は外れて、慌てて男を探しますが、案の定その姿は消えていました。「あんときはまだ、おぼこかったからなあ」と、山塚さんは照れながら話してくれました。

 中学を卒業してから成人するまで靴作りの見習いを続けた山塚さんは、真面目に仕事を覚え、職人になりました。そして結婚をし、子供をもうけます。そんなとき、今度は別の親戚から、仕事を手伝って欲しいと声をかけられました。「まあ、困ってそうやったから、しゃあないわな。ええよって手伝うことにしたんや」。
 次の東への移動は、大阪から静岡でした。

 山塚さん夫婦はまだ幼い子供を大阪の母親のもとに残し、西伊豆の温泉街で魚屋を手伝うことになりました。仕事は旅館への配達でした。毎日、回遊魚のように止まることなく魚を配達しました。そのせいで仕事が終わって飲みに出かけても、手が生臭く、どこに行っても魚屋だとわかってしまったと言います。「西伊豆には結局2年くらいはおったかな」。

 しばらくすると、ここでもまた新たな誘いが舞い込みます。仲良くなった友人から、兄貴が建設会社を始めるから手伝ってくれないかと誘われました。昭和51年、大阪から子供を呼び寄せ、一家はそろって静岡から東京へ移り住みます。「せやけどその親方の支払いが悪うてな、給料半分だけ渡して、残りは待ってやいいよんねん」。同じ現場になった他の会社の職人にそのことを話すと、じゃあうちに来いと誘われて、「小さい会社やけどな」と別の会社に移ることにしました。

 競輪場に仲間はいないんですかと尋ねると、「おるけど、生活保護をもらっとる連中やから、あんまりつるんだりはせえへんねん」と答える山塚さん。以前、年金支給日の翌日にここに来たとき、人の多さにやはりみんなそのお金を使っているのかと実感しました。しかし生活保護の人たちがいるというのは知りませんでした。「次の開催は給料日前やから、来られへんわなんて言うと、連中、2万くらい貸してやるよって言いよんねん。そんな金ようあんなと思うんやけどな」。
 モニターの前でまたあの男が怒号を上げています。拳を振り上げるために右手を抜いたポケットから100円玉が転がり落ちます。レースが終わると、また大きな声で文句を言っています。「いちいちあんなん言うてたら、一生当たらへんで」。すると、隣でオッズ表を眺めていたおじさんが立ち上がり、100円玉を拾ったかと思うと、自分のポケットにしまいます。そして席に戻り、またオッズ表を眺めます。「まあ、今日は俺も当たってへんけどな」と山塚さんはひとりごちました。

 山塚さんは、今でもその小さい会社に勤めています。ゼネコンではなく、街場の仕事がメインなので、この歳まで現役でやらせてもらってるんだと山塚さんは言います。「そろそろ女房が帰ってくる時間やな」と、最終レースの終わりを待たずに帰る山塚さんに、もうこれ以上東に行くことはないんですかと尋ねてみます。すると少し間をおいて、「そやなあ、死ぬまでにいっぺん女房とハワイには行ってみたいなあ」と答えて、小雨の中をゲートの方へ小走りで駆けて行きました。

Photo ©波田野州平波田野州平 Shuhei Hatano
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1980年鳥取生まれ、東京在住。
カメラを携え、各地で出会った未知の歓びを記録し、映画を作っています。
近作に『私はおぼえている』(2021)、『それはとにかくまぶしい』(2023)がある。